「今日は吉田松陰の『留魂録(りゅうこんろく)』について、語りたいと思います」
「どうしたのですか、急に神妙になって」
「『留魂録』というのは、松陰が処刑される2日前の10月25日に書き始め、翌日の26日夕刻までに書き上げた弟子たちへ宛てた遺言です」
「えっ、たった2日で書いたのですか? どの位の分量だったのですか?」
「400字詰め原稿用紙で、10枚くらいの分量になると思います。吉田松陰は非常に筆が早かったと言われていますが、同じ内容のものを2部書いたと言われています」
「『2部書いたと言われています』ということは、確かではないということですか?」
「鋭く突っ込みを入れますね。周りの人の証言から2部作ったのは確かなようです。ただ、もう1部はどこへ行ったのか分かっていません」
「1部はどこにあるのですか?」
「山口県萩市の松陰神社に保存されています。ただ、現存の1部も奇跡のような内訳話があるのです」
「逆に言えば、1部だと無くなってしまう恐れがある、だから2部同じものを書いたのですね」
「そうだと思います。当時はコピーがありません、当たり前ですけど。ただ、すべてを予測した上で、2部作製したということだと思います」
「『留魂』という言葉を使っているのですが、これはどういう意味でしょうか?」
「松陰は明らかに死後の世界の存在を確信していたと思われるのですが、自分の魂からの叫びをそこに込めたということだと思います」
「亡くなった時は、まだ30歳ですよね。どうして死罪になったのですか?」
「簡単に言えば、一種の思想弾圧ですね。松陰のことを幕末のテロリストとかいう人がいますが、彼は生涯一人も殺していません」
「吉田松陰とくれば松下村塾ですが、どうしてあれだけの人材を輩出できたのでしょうか」
「総理大臣2名、国務大臣7名、大学創立者2名です。魂による志教育の実践の成果だと思います」
「教育は人なりですね。ここからが本論です ↓」
『留魂録』が陽の目を見るまでの奇跡的ないきさつ
松陰は処刑されることが決まっているその日の前日まで筆を執っていたそうです。同じ内容のものを2通用意するのですが、それが『留魂録』です。1通を長州に送ったと言っています。そして、それが届かない可能性もあるので、その直筆の書を同じ獄舎にいた沼崎吉五郎という者に託します。
長州に送られたものは、藩に届いていたようですが、明治維新の混乱の中で所在不明となります。沼崎に託されたものの、沼崎自身がその後三宅島に島流しになります。その後、赦免となり吉五郎は託された手紙を渡す人物を探します。生前、松陰は長州藩の人間ならば誰でも良いからといっていました。かといって、誰でも良いというわけではないと思って探したのでしょう。
明治9(1876)年になって、長州藩出身で明治維新以降、明治政府の役人として活躍した野村靖(やすし)という人物の前に、島流しから帰ってきた沼崎吉五郎が忽然と現れ、靖に松陰から託された『留魂録』の冊子を渡します。驚いた靖(やすし)はそれを拝見すると、見覚えのある松陰先生の筆跡です。靖(やすし)は松下村塾の門人の一人だったのです。沼崎に書が託されてから17年の歳月が流れていたのです。
理気二元論の世界観
松陰が遺した『七生説(しちしょうせつ)』という文章があります。そこには、彼の死生観が書かれています。人間をどう見るのか、死とは何か、生とは何か、彼の考えが分かります。「理」と「気」を使っていますので、朱子学の影響を受けていることが分かります。
「気」というのは物質です。肉体も「気」です。とにかく、目に見えるものはすべて「気」なのです。この世はすべて「気」と「理」から成り立つと説くのが朱子学の理気二元論です。
ちなみに「気」だけによって、すべてのものが成り立っているとするのが唯物論です。物質や肉体はすべて素粒子という、電子顕微鏡ですら見えないほどの小さな粒子によって成り立っていることが分かっています。それを一つのかたちあるものとして纏まっているということは、それらの中心にそれらを一つに纏めている何かがあるはず。それを「理」と呼んでいるのです。
命あるものもないものも、何か一つにまとまっているということは、その「中心」に「理」があるはず。人間の細胞も素粒子によって成り立っていることは明らかです。ということは、それらを一つの生命体としてまとめているものがあるはず。それは「理」であり、魂であろうということなのです。
死とは、肉体である「気」から「理」が離れることを意味します。その瞬間に「気」に解散命令が出て、一斉に離れ離れになります。物凄い勢いで離れるために死臭が周りに漂います。理が気である肉体から離れるということは、そのようなことを意味しているのです。
そして、この魂が時間と空間を超えて、同じレベルの魂と共鳴します。共鳴した時に、人は涙を流します。それが一つの合図となります。だから大事なことは、自身の魂のレベルを上げることと考えます。
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽(くち)ぬとも 留め置(おか)まし 大和魂」(吉田松陰)
『留魂録』はこの和歌から始まっています。この肉体は死んで腐ったとしても、私の日本人としての魂は、この世を大きく変える力となるためにここに留まるであろう、というような意味です。
吉田松陰の死生観は、三島由紀夫のそれと似ていると思います。我々凡人は死んで何になると思うのですが、死ぬことによってこの世に影響を与えることができると考えるのです。だから、松陰の死を迎える姿は実に淡々としています。
翻訳ですが、『留魂録』の中に、こういう下りがあります――「何にしても、私たちが処刑されるのは、今年の冬よりあとでしょう。たぶん来年の春です。来年の春というと、まだ時間もありますから、お互い努力して学問をしましょう。私などは今回、また『野山獄』に入れられてから、なにやら、とても自分の学問が進んだように感じています」。
凡人であれば、死刑が執行される日がほぼ決まれば、もう何もやる気が起きない、自由気ままに時間を過ごすことを考えると思うのですが、彼は「学問」と言います。普通の感覚では、この人についていけないでしょう。
彼の死生観もさることながら、当時においては過激な変革思想をもっていました。そういうこともあり、門人の中には松陰と距離を置き始める者も出てきます。そういう中にあって野村靖は松陰の教えに従い続けた人でした。そのため、「岩倉獄」に入れられたりしたのです。
『留魂録』は最後には、その野村靖のもとに届けられることになるのですが、実は松陰は生前に彼のもとに長文の手紙を書き送っています。
その際に有名な「草莽崛起(そうもうくっき)」という言葉を使っています。草莽崛起というのは、民間人が立ち上がって、世の中を変革するという意味ですが、その担い手は志ある庶民だと考えるようになります。「それらの人々こそが、じつは、わが国の巨大な政治変革の導火線に火を点ける主役になるのではないか」(松浦光修『留魂録』PHP研究所、2011年/130ページ)と言います。
彼の熱き想いが門人たちの心を奮い立たせ、明治維新という偉業を短期間に成し遂げることができたのです。
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