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「日本的特性としての外国崇拝」 / 他国に誇るべき鋭敏な感受性の持ち主たち

  • 2020年6月19日
  • 2020年6月20日
  • 歴史
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「日本人は横文字に弱いという話を聞きませんか?」

女性

「私なんかは、英語コンプレックスでした」

「それは、単に点数がとれなかったということでしょ。そうではなく、西洋のものに条件反射的に迎合してしまうということです」

女性

「私たちの世代では、余りそういうのはないと思います。日本製と書いてあると、安心という感覚ですからね」

「そうは言っても、英語教育と言われると、気持ちが揺らぎませんか?」

女性

「鋭く突っ込みますね、確かに、そう言われれば……」

「日本の憲法学会や歴史学会は、西洋史観が幅を利かせています」

女性

「政界もそうですよね」

「そうですね。共産主義、立憲主義の名前を党名につけている政党がありますが、西洋史観かぶれの政党だと独白しているようなものです」

女性

「だから、彼らはやたらと対決姿勢を前面に押し出すのですね」

「そうですね、国家を階級的に捉え、その対立構造の中で政治を捉えようとします」

女性

「そういう見方、考え方はいかがでしょうか?」

「日本の従来の統治のあり方からすると間違っていると思いますが、為政者があらぬ方向に走り始めているような時には、存在意義があると思います」

女性

「じゃあ、今は活躍の時でしょうか?」

「どの分野で活躍するのか、という問題があります」

女性

「分野というのは、何ですか?」

「内政と外交に大きく分かれると思いますが、外交分野については、挙国一致で当たって欲しいと思います」

女性

「外交、我関せずという野党がありますよね」

「それでは困るのです。とにかく、政治もスポーツも同じで「軸」がぶれたらダメです。今は、政府の「軸」がぶれていますので、少し刺激を与えてもらっても良いのではないかと思っています」

「ここからが本論です。続きをどうぞ ↓」




 「日本的特性としての外国崇拝」(和辻哲郎)

一体、これは何なのかなと常に思っていることの中に、日本人の信仰と言ってもいいような外国崇拝があります。敗戦を契機として、そのようになっていったのかなと思っていたのですが、どうもそうではなく、「伝統的」なものであると和辻氏は喝破します。

その辺りについて、倫理学者として高名な和辻哲郎(1889-1960)の論文を参考にしながら、考えてみたいと思います。彼は指摘します――「我々は自国の文化をどれほど古くさかのぼっても外国崇拝の痕跡のない時代に達することはできない」「人は新しく受け容れたものを尊重するの余り、自国の伝統的なものを捨ててもよいと感ずるのである。そうしてこの態度そのものが日本民族にとって伝統的なのである」(和辻哲郎「日本精神」/『和辻哲郎集』筑摩書房.1974年所収)。

外国崇拝とありますが、実は、和辻氏は必ずしも否定的には捉えていないのです。むしろ肯定的に捉えています。確かに、何が優れているかが分からなければ崇拝できません。つまり、日本人は「優れたる文化に対してきわめて鋭敏な感受性」(和辻 前掲論文)を持っていたということなのです。

 「鋭敏な感受性」は他国に誇るべき日本人の特性

謙虚であるが故に、自己卑下の傾向が強いと言われています。ただ、それは統計の上からも確認できます。下の棒グラフを参照してみて下さい。

 

https://www.blog.crn.or.jp/lab/assets_c/2019/03/lab_11_03_01-12297.html

自己卑下の傾向というのは、一体何が原因なのかということですが、いろいろな原因が考えられます。反日教育の問題もあると思いますが、それは戦後の話です。この問題は、歴史の重みを引きずっているのです

その大元の原因が日本の自給自足体制にあったと思います。どういうことか、日本は島国のため、どうしても自給自足体制を確立させるしかありませんでした。食糧や衣類といった生活必需品はとにかく自前で調達できるような態勢をとります。ということは、他国との取引の品は常に奢侈品であったはずです。買う価値の無い物が、取引の対象になることがなかったからです。

そうなると、日本の中に錯覚が生まれます。つまり、海を渡って来る西洋の文物は常に素晴らしい、という錯覚です。そういう中で、「他国はいつも民族にとっては理想化せられた国」(和辻 前掲論文)となっていったのだと思われます。

 島国育ちが大きな理由

日本人にとっては他国は実は理想国の別名だったのである。だから、崇拝せられたのは実は他国そのものではなくして己の理想であった。またそれが理想であるがゆえに崇拝に価したのである」(和辻 前掲論文)

四方が荒海に囲まれている島国であるが故に、他国との交流は余り期待はできません。そういった条件の中で、自ずと外国崇拝といった特性が身についてしまったと、和辻は指摘するのです。

確かにそう言われれば、私の子供の時代は、外国製品のことを「舶来品」と言っていた記憶があります。「舶来」というのは、船によって外国の製品が日本に運ばれたという意味だと思いますが、それらが戦後すぐの時代には、百貨店のショーウィンドーに展示されているというイメージとして定着し、「舶来」=「贅沢品」という観念が定着していったのだと思います。

そしてそれがモノだけではなく、学問や文物にも及んでいったということではないかと思います。日本の憲法学は、完全な「舶来主義」です。権利、立憲主義、主権といった概念はすべて「舶来品」です。そういった概念や、階級史観を念頭にして日本の憲法を説明しようとしますし、多くの学者はそのことについて、問題意識すらもっていません

そもそも、明治憲法を「天皇主権」と間違った説明をすべての教科書がしています。これは、憲法学会の通説を採り入れているからだと思いますが、これがある意味象徴的な事例です。

皇室制度は古代の時代から連綿と続いていて、令和の現在まで本質的に何も変わっていません。どうして、明治の時代だけ「主権者」になるのか、不思議です。明治憲法にもそのような規定がありません。西洋の法概念に当てはめようとするので、そういう間違いをするのだと思います。

歴史学会も同じです。西洋の階級史観を日本の歴史に当てはめつつ、「近隣条項」を適用しようとします。いわゆる自虐史観によって教科書が書かれ、それが日本列島の隅から隅まで配られることになるのです。結局、そういった教科書が国内で自虐史観を広め、韓国で反日感情を広めることになるのです。

もしかしたら、教科書を執筆している人の中に、そういうことを願っている人がいるのかもしれません。

読んで頂きありがとうございました。

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