「民主主義 対 専制主義の時代とバイデン大統領は言いましたが、戦略的にそういう立て方をしない方が良いのではないかと思います」
「どうしてですか?」
「民主主義国家というのは、実は世界では少数派なのです。そういう構図を作ってしまうと、下手をすると少数派の民主主義国、多数派の専制主義の国となってしまい、不利な状況からスタートするようだからです」
「どうすれば良いですか?」
「ずばり、民主主義 対 共産主義で良いと思いますけど……」
「専制主義と共産主義はそんなに違わないような気がしますけど……」
「今問題にしたいのは、中国の共産主義です。中国共産党は中華思想の影響もあって対外拡張主義を採っています。専制主義には、拡張主義の考え方はありません。そこが違う点です」
「であれば、民主主義 対 中国共産党 でいかがですか?」
「凄いこと言い始めましたね。ここが香港なら、2代目アグネスになれますよ」
「有難うございます。その香港が政治的に死に体になってしまい、いよいよ台湾海峡を越えて魔手が伸びてくるのではないかと思います」
「実は今年が中国共産党創立100周年、さらには新経済五か年計画の最初の年となります。2つの慶事に花を添えたいと思っていると思います」
「台湾の人からすれば、花でも何でもないと思いますけど……」
「中国の共産主義者はまず自分を中心に物事を見ますからね。「一つの中国」をどうしても実現したいと考えていると思います」
「台湾について、学校でも殆ど教えてもらっていません。ただ、家族で台湾に旅行に行ったことがあるのですが、随分温かく迎えてくれたという印象をもっています」
「親日の国ですが、そこまでには語るも涙の物語が多くあります」
「いくつか紹介できたらと思います。ここからが本論です」
台湾統治の初期は、現地人、漢人の激しい抵抗に遭う
台湾は今でこそ大変な発展をしていますが、ここは日本によって開発されるまでは匪賊(ひぞく)が跋扈(ばっこ)し、「族群相互の争いが絶えず、アヘン禍のはびこる無秩序社会」(『台湾を築いた明治の日本人』)、つまり化外の地だったのです。それを象徴する事件が2つあります。
1871(明治4)年に台湾に漂着した宮古島の漁民64人がのうち、54人が現地の先住民に殺されるという事件が起きています。また、1896(明治29)年に台湾に赴任してきたばかりの若き日本人男性教師6人と用務員全員が現地の武装勢力に惨殺されています(「芝山巌(しざんがん)事件」)。彼らは全員首を切り落とされています。いずれにしても、丸腰の人間を集団で襲って殺してしまうという、殆ど野獣のような現地人がいたということが分かります。
台湾は日清戦争で日本が勝利をして、相手国の清から割譲を受けた地です。それから終戦まで日本が台湾を統治しますが、最初のうちは現地人の猛烈な抵抗に遭い大変苦労します。清の行政官が台湾の現地人と結託して日本に対して反抗をそそのかすなどということもありました。さらに、1895年には「台湾民主国」を樹立し独立宣言を行ったグループが出てきて、これらとの軍事的衝突も台湾の各所であったのです。
日本は現地に総督府を置いたのですが、その初代から3代までは日清戦争に従軍した陸軍軍人です。つまり、このことは初期の頃は原住民、漢人、原住民漢人合同などの抵抗に遭い、それとの戦いに明け暮れる日々だったことを証明しています。日本は「もうひとつの日清戦争」(『台湾を築いた明治の日本人』)を戦ったのです。
国立台湾歴史博物館に「武装抗日事件」がどこで起きたかを示す台湾歴史地図というものがあります。それを見ると、1896(明治29)年から1932(昭和7)年まで台湾の各所で抵抗運動があったことが分かります。
現在の台湾総統府の建物は日本の統治時代のもの
抵抗運動が一段落するのが1915年頃です。そういったこともあって総督府が建てられることになります。1919年3月に竣工しますが、この設計デザインは当時懸賞募集で行われています。1等賞金は3万円、現在の貨幣価値に直すと何千万という額、そこに当時の日本の台湾統治への思いを感じることが出来ます。
外観を赤レンガの基調にしたのは、赤は漢民族におめでたい色として好まれるため、そして装飾も過多と思われるくらいに多くして南国台湾の風土にマッチするようにしたのです。中央部分の塔を60メートルと高くして、シンボルマークのような意味をもたせています。
実はこの建物は現在も台湾総統府として使われていて、2019年には落成100周年のお祝いの式典が台北で執り行われ、記念切手まで発行してくれています。そして、設計者の森山松之助(1869~1949)の孫の治(おさむ)氏が記念式典に招かれています。
治氏は「台湾の人たちは(松之助設計の建物を)大切に補修しながら現役の建物として使ってくれている。歴史の中に埋もれてしまうところをいろんな方によって表舞台に出してもらったことを感謝したい」(「台湾日本人物語―統治時代の真実」13『産経』2020.9.16日付)とのコメントを出しています。
(「鈴木商店記念館」)
台湾の統治が落ち着いた頃、日本は朝鮮を併合して(1910年)、朝鮮総督府庁舎を1926(大正15)年に建てます。その庁舎は戦後も韓国政府が中央庁舎、国立博物館として使用していたのですが、1995年に金泳三政権となり「日帝時代の残滓(ざんし)」ということで取り壊されてしまいます。同じ考え方で統治をしたのですが、半島の人たちの反応は台湾とは全く真逆です。下の写真(「note」)は取り壊されてしまった朝鮮総督府庁舎です。歴史的建造物でもあったのですが、彼らにはそういうことがよく分からなかったようです。
日本の教科書――台湾の統治について悪意に満ちた表現で紹介
台湾について日本の高校教科書はどのように書いているかを見たいと思います。実は殆ど断片的にしか書かれていません。それは多分中国に対する配慮といったものがあるのではないかと思います。忖度か圧力かは分かりませんが、とにかく多くの日本人が台湾に対して尽力した事実が日本では埋もれてしまっている現状があります。
「日本政府は、新たに領有した台湾の統治に力を注ぎ、1895(明治28)年、海軍軍令部長の樺山資紀を台湾総督に任命し、島民の頑強な抵抗を武力で鎮圧した」(『詳説日本史』山川出版社)とあり、注書きで児玉源太郎と後藤新平の名前を紹介した後、「台湾の支配は、現地の地主・商人などの富裕層を懐柔しながら進められたが、その一方で貧農などの民衆は日本の支配への抵抗を続け、たびたび反日武装蜂起をおこした。日本はこれに対して徹底した弾圧でのぞみ、その支配は1945(昭和20)年まで続いた」(同上)とあります。
生徒に誤解を与える表現ということで指導が付かなかったのでしょうか。従軍慰安婦という造語を中学の歴史教科書に載せるということがありましたが、この文章も極めて反日的で恣意的かつ悪意ある文章です。
記録によると、原住民の抗日事件は1932年に2件あり、それが最後です。漢人の抗日事件は1915年に1件あり、それが最後です。抗日運動が終息していったのは、「徹底した弾圧」のためではなく、日本の台湾統治が現地の人たちに受け入れられていったからだと思います。学校を建て、教育を普及させ、ダムを作って治水管理をして、農業生産を高めました。そういった日本人の陰ながらの努力が現地の人たちに徐々に理解されていったのだということです。
台湾にいて日本の教育を受け、日本への留学経験もある李登輝氏が台湾で最初の民選の総統になったこともあり、台湾は極めて親日的です。それは実際に現地を観光すると肌で感じることが出来ます。3.11の時の義援金の額はアメリカとほぼ同額、世界で2番目に多くの額でした。そういったことと、日本の歴史教科書の記述が繋がりません。大いに問題があることだと思っています。
P(「朝日新聞デジタル」)
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