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台湾との絆を深める時 / 台湾の真の発展を願っての植民地経営―—PART2

女性

「昨日のブログで紹介した森山松之助さんは、台湾では大変有名な方なんですね」

「彼の当時の立場は台湾総督府営繕課技師です。1906年から台湾に15年いて、多くの官公庁舎を手掛けていて、主要なものはまだ多く残っているからです」

女性

「建物は維持管理が大事なので、台湾の人たちが上手く管理してくれたということでしょうね」

「実は、それに関するエピソードがあります。台南州庁の建物も彼が手掛けています。戦災で屋根のドーム部分が損壊したそうですが、地元住民は彼が設計した通りに修復して今に至っているそうです」

女性

「彼のような方が外地の台湾に赴いたのは、何か理由があったのですか?」

「当時は日本の若手建築家の多くが活躍の場を求めて、台湾、朝鮮、満州に渡っています。そのような状況下の中で、後藤新平との出会いが大きかったと思います」

女性

「その名前、日本史の授業で習いました」

「本当ですか? 教科書の後ろの索引に入っていない名前を普通は教えませんけどね」

女性

「満州鉄道の初代総裁を確か務めていると思ったのですが……。先生が満鉄、満鉄と言っていたのでおかしかったのと、初代総裁の名前くらい覚えないといけないかなと思って記憶した覚えがあります」

「後藤新平はその前に台湾総督府の民生長官をしています。その時に歯の治療で訪れていた歯科医で森山松之助との運命的な出会いがあったのです。その歯科医の自宅・診療所の設計を彼が行ったのですが、その図面を後藤が見て何かを感じたのでしょう。訪台を進めます」

女性

「何かすごくドラマチックな話ですね」

「そうですね、もし満州鉄道の初代総裁の時であれば、彼は満州に渡っていたかもしれませんね」

女性

「であれば、彼の設計した建物は無くなっていたでしょうね(笑)」

「そうかもしれませんね。ここからが本論です」

 

 国立台湾博物館鉄道部パーク、オープンー―森山松之助の設計した建物

台湾の台北市でかつて日本の鉄道部(鉄道省)が使用した建物が修復され、2020年7月から「国立台湾博物館鉄道部パーク」として新たにオープンしています。実は、この修復された建物を設計したのが森山松之助氏なのです。元の建物は1918(大正7)年に壁は朱色のレンガ造り、屋根を褐色の木で造り、「森山の他の建築物とは異なり、優しい装いが特徴」(林一宏アシスタント研究員)とのことです。

日本の鉄道部が使用した建物は、1990年代まで台湾鉄路管理局の庁舎として使用され、2007年には国定遺跡に指定されます。2014年から修復作業が開始され2020年に装いを新たにしていますが、当時の間取りをそのまま維持して建築当時の面影を残すように努めたと言います。

内部の展示は、鉄道発展の歩みを通じて、台湾の近現代史を学ぶことができるような工夫がなされています。日本の統治時代に進められた台湾西部の鉄道建設から2007年の高速鉄道開通までを時代を追って紹介しています。各種車両の模型や復元されたかつての駅舎やその当時の通信機器なども展示されています。

(1970~80年代の台北駅と周辺の街並みを再現した巨大ジオラマ/「taipeinavi.com」)

1935(昭和10)年に開催された台湾博覧会を紹介する展示場も設置されています。この時には台湾ではすでに西側は北部の台北から南部の高雄、渓州まで、東部は花蓮港から台東までが鉄道が整備され、それが台湾の近代化に一役買っています。この建物の修復と展示計画に初期から関わった研究者は「当時の日本人は真剣に台湾の発展に取り組んだ」と評価してくれています。日本の統治の時代を含めて、台湾の歴史を伝えていくと言っています。(この項目は「鉄道で学ぶ台湾の歴史」『八重山日報』2020.8.25日付を参考)

朝鮮半島に日本が残した建物は、「日帝の残滓」ということで取り壊され、中国に鉄道を敷けば侵略してきたといわれ爆破事件を起こされる(満州鉄道爆破事件)。人間と同じです。同じことをしても感謝をしてくれる人と、有難迷惑と言う人、怒りだす人など様々です。人を見て付き合えというのは、こちらの行動の真意を理解してくれる人と付き合わないと、すべての労力が無駄、ひいては時間と人生が無駄になるので、そうならないように気を付けようというアドバイスです。国同士の付き合いも同じです。歴史に学ぶと言いますが、どの国と付き合えば良いかは、この間の歴史的な経験を踏まえれば自ずと解答が出てくると思います。隣国という理由だけで国交を結ばなければいけないというルールはないのです。隣国というのは、世界を見渡しても仲が良いという話は余り聞きません。付き合う場合は、用心して付き合うというのが国際常識なのかもしれません。


(「サンケイビズ」)

 台湾はどの国も見放していた「化外の地」

今でこそ「一つの中国」という屁理屈を持ち出して台湾の強奪計画を練っている中国ですが、歴史を調べると中国の王朝は、明の王朝まで台湾には関心がなく、清の時代になって反清勢力の拠点にならないように防御的な観点から台湾に関わっていた程度です。

そもそも台湾が発見されたのは16世紀の大航海時代にポルトガルによってなされます。その時に、「麗しの島」(フォーモサ)と名付けられたため、欧米ではフォーモサで呼ばれるようになったそうです。その後、いろいろな国が台湾に関わろうとして失敗し、あきらめて退散するということを繰り返していたということが分かります。

1904年に「ニューヨーク・タイムズ」が「日本人によって劇的な変化を遂げた台湾という島」という長い論説文を掲載しています。その全文の翻訳を『台湾を築いた明治の日本人』(産経新聞出版) が掲載していますが、それによると、台湾の植民地経営を最初にドイツが失敗し、スペイン、オランダも惨めな失敗に終わった。中国は荒蕪地(こうぶち)のまま放置、フランスとイギリスは経営する力はあったが台湾島内部に足を踏み入れようとしなかった、とあります。そういう中で日清戦争が起き、その結果台湾が日本に割譲されることになったのですが、清の李鴻章は劣悪な島であることにやがて気が付くであろうと嘯(うそぶ)いたそうです。そして、「おそらく中国は、この無法な島を手放してかえってほっとしたのではないか」との記者のコメントがあります。

実際に日本が台湾に踏み込み分かったことは、沿岸地域は海賊が跳梁(ちょうりょう)し、そして道路はないが、変わりに鉄道がある島だということが分かったのです。鉄道といっても粗雑なつくりもので運賃や運行はその日ごとに違い、都合のいい時にだけ発着するというものだったのです。


(中華思想の中国からすれば、台湾は化外の地/「Yahoo 知恵袋」)

 台湾の発展を真に願っての植民地経営

日本が行ったのは、道路の整備、鉄道建設、郵便制度の導入、学校の建設と教育の普及、ダムの建設、農業指導、地場産業の育成、森林業の指導などです。おせっかいな位にカネと人力を注ぎ込みます。

教育はあらゆる進歩の基礎ということで、日本の教育制度が導入されます先住民のための小学校を130校作るのですが、それだけではなく医学校と日本語学校、師範学校をつくります。この「ニューヨーク・タイムズ」の記事が書かれた時点ではまだ設置されていませんが、1928(昭和3)年には帝国大学まで創設します。日本以外の国が植民地に大学を設置した例は全くなく、そこには欧米とは違う植民地経営の考え方が反映されているのです。李登輝(1923~2020)は台湾台北県の出身者ですので現地人ですが、そういった教育制度の中で学び、やがて台湾の総統になっていくのです

「ニューヨーク・タイムズ」の記事は、台湾が日本の統治下に置かれてから約10年位経った頃に書かれたものです。その文章から彼らの驚嘆振りが感じられます。経済成長を示す指標として、納税額をデータとして使用しています。1898年74万7850円、1902年195万2220円とわずか4年間で約3倍になっています。しかもこれは強制的に取り立てた訳ではないという注釈付きて書いています。なお、当時の1円は今の貨幣価値に直すと3万円位ではないかと思います。

そのため人口が急速に増加したと言っています。1897年245万5357人、1903年308万2404人です。ただ、まだこの時点で抗日の抵抗運動はありました。しかし、こういった状況が広がる中でやがては沈静化していったのです。山川出版の日本史教科書には日本が終戦間際まで武力を使い、恐怖政治をして鎮圧したかのような記述がありますが、データや様々な資料を辿るとそうではないことが分かります。

教科書は市販されないため、その中身を一般の国民が見ることができません。主権者は国民なので、そのこと自体が問題と思っています。だからこそ逆に出版社、著作者、並びに教科書検定官は責任があると思っています。歴史学と歴史教育は別です。子供たちが日本の先人たちの思いや業績を普通に読めば理解できるような歴史教科書が求められていると思います。何も歴史学者だけが関われば済むという問題でもありません。そして、きちんとした教科書が発行できないのならば、アメリカのように自由発行制にすれば良いと思います。

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