「豊田有恒氏が書かれた『東大出てもバカはバカ』(飛鳥新社、2020年)というユニークな題名の本を買ってみました」
「今、その本、手に入らないみたいですよ」
「そうなんですか! 東大とバカのコラボレーションなので、面白いと思って買う人が多いのでしょうか」
「そこまでは分かりませんし、そもそも私が読んでいません。いかがでしたか?」
「表題のインパクトの強さに比べて、中身については結構冷静で分析的に書かれている印象をもちました」
「売れているということですが、東大を端からダメという人たちが、留飲を下げる目的で買ったりしているのではないでしょうか」
「その辺りは、どうでしょうか。購買者の心理までは分かりませんからね」
「ところで、この本を買ったということは、東大に対するある程度の思い入れがあるはずですよね。その辺りは、いかがでしょうか」
「私なんかは、東大を狙って落ちてしまった側ですからね」
「それじゃあ、バカのさらに下のバカになってしまいますね」
「あのね……。何を規準にして「バカ」なのかという問題があるのです」
「その規準ですが、当然変わりますよね」
「著者の豊田氏が言いたいのは、東大合格を正しい規準と考えてはいけないということなのです」
「つまり、東大を合格した中には、バカと利口がいて、不合格の中にもバカと利口がいるということですね」
「東大はかつて中国で行われた科挙の試験を思い起こさせます。科挙の導入によって国力は下がっていきました。点数万能主義ではダメというのが、すでに実証されています」
「どうすれば、いいのでしょうか?」
「各大学で、その学部学科に見合った選抜の在り方を考えるということだと思います」
「共通テストという発想ではダメということですね」
「日本が工業社会ならば良いと思います。もう、そういう時代ではありません。横一線という発想をまず止める、そして、時代に見合った大学入試をそれぞれの大学の責任において行うということです」
「ここからが本論です ↓」
東大に入るために
東大を目指して努力すること自体は、それなりに意義があると思いますので、そこを否定してはいけないと思います。ただ、生半可な努力で合格できる大学ではないことは確かです。
何かの参考になればと思い、私自身の経験をお話します。私は、地元では受験校として名が通った私立の中・高校の一貫校の出身です。だから、友達の中には、東大に入るために入学してきたという者もいたのです。
彼は、「東大、東大」と中学1年生の時から言っていました。その頃は、毎年20人位東大に入っていました (現在も大体その位だそうです) 。それで、常に学年順位20番以内を目指し、虫メガネのような度の強い眼鏡をかけて、まさに東大一直線の「がり勉君」でした。
彼は結局、東大の理Ⅰに入学するのですが、その後の人生は知りません。理Ⅲ(医学部)に現役で合格できる力があり、担任がそちらを勧めたそうです。そうすると、中学の時から理Ⅰを目指して勉強してきたので、目標を変える訳にはいかないと言って理Ⅰを受けたそうです。それを聞いて、「やっぱり、変わっているな。あいつ」と周りが変に納得したことがありました。
彼は部活動などトンデモナイということで、ひたすら勉強の毎日を過ごしていました。私はテニス部に入って、土日関係なく毎日練習していました。部活動はすべて生徒による自主活動です。だから、塾とか家庭教師の日は、休んで構わないのです。ただ、学校の勉強に合った塾が殆どなかったので、家庭教師を頼む、高校にはいってから予備校に通うしかなかったと思います。私の親は、学校で一生懸命聞いていれば、そういうものは必要ないと言ったので、中学から高校まで独学でした。
彼と交流するのは、定期試験の1週間前からです。定期試験に向けて、彼がいろいろ教えてくれるのです。もともと、定期試験は彼にとって眼中にないのです。すべて余裕で90点以上取ってしまいます。その学校は、定期試験ではなく、年3回実施される実力テストが重要なのです。教師が手作りをしたその実力テストで学年順位が決まります。定期試験は彼に取ってみれば小手調べのようなものなのです。
一応、定期試験の1週間前から部活動がありませんので、そこから授業中に分からないことを彼に教えてもらったりしたのです。中学3年間を2年半位で終えて、中学3年の後半からは高校1年の教育課程を学習しているので、部活動をしている者にとってはかなり大変なのです。適合する塾がないので、彼は貴重な人材だったのです。
目標が高ければ高いほど、一人でそれを目指さない方が良い
たぶん、麻布、開成、武蔵あたりも、そういうカリキュラムが組まれていると思います。実際に、その位でないと東大は難しいと思います。そして、例えばスポーツのトップの選手は必ずといっていいほどコーチをつけます。トップを目指せば目指すほど競争がし烈なので、それを自分一人で乗り越えるのは大変だからです。
私は一浪して東大を目指すのですが、あえなく惨敗します。一応、1年間猛勉強をしたのです。9時に図書館の学習室に入り、18時までずっと1年間勉強しました。当時は国立1期校、2期校という言い方でした。試験科目が5教科6科目あったのです。1科目1.5時間かけても9時間必要です。勉強時間をいかに捻出するかが大変でした。それでも手が届かなかったのですが、それで思うことは一人の力では限界があるということです。
勉強にしてもスポーツにしても、高い目標であればあるほど、周りの応援が必要です。気持ちの応援、金銭的な応援、何でも良いので何らかのサポートが必要です。私の場合は、全くと言っていいほど、そういうものはありませんでした。私立の学校に入れてカネをかけたのに、どうしてそれ以上にお金をかける必要があるのか、と言われました。それはそれで一つの理屈です。ただ、それでは東大レベルの大学を目指すのは無理だと思います。コーチをつけずにウインブルドンに出ることを考えるようなものです。
異能者を見極めるための選抜試験に転換する時
そして当時を振り返って思うことの一つは、受験勉強というのは人生にとって余り役に立たないということです。
豊田氏もそのことを指摘しています――「現在のような丸暗記中心の選抜法に頼る限り、日本の未来は消滅する」(豊田有恒『東大出てもバカはバカ』飛鳥新社、2020/197ページ)。その理由を簡単に言えば、考えることをしなくなってしまうからです。考えるよりも、覚えてしまった方が点数が取れるからです。考えれば時間だけが無駄になってしまい、点数が伸びなくなります。だから、勢い暗記に頼ることになります。超難関の科挙の試験を採用していた中国の清が、明治維新を成し遂げたばかりの若い日本の国に負けた(日清戦争)という史実もあります。
「分析力を持ち、創造力に秀でた人材を登用する選抜法を、採用しなければならない。異能者を認めるためには、工夫が必要になるが、それが欠けている。」(豊田有恒 前掲書、197ページ)
時代が大きく変わろうとしています。それに見合った必要な人材をいかに発掘するか、その探求をする必要があるのです。
読んでいただき、ありがとうございました。
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