「ウクライナがクリミア半島にあるロシアの指令部を破壊したというニュースが入ってきましたが、戦争は激しくなるばかりだと思っています」
「様々な情報を総合すると、ロシアに段々余裕が無くなってきているのが分かります」
「北朝鮮との首脳会談ですか?前におっしゃってましたよね。北朝鮮に武器、弾薬を頼むなんて、と。」
「つい最近のアルメニアとアゼルバイジャンの紛争にロシアが関わることが出来ませんでしたからね」
「本来なら関われたような事案なんですか?」
「というか、アルメニアとロシアは軍事同盟を結んでいますので、関わらないといけないと思います。2020年の両国の紛争の時は、ロシアは2,000人の部隊を現地に派遣しています」
「今回はそれがなかったということですね」
「アゼルバイジャンも、それを見越してこのタイミングで仕掛けたと思います。そういったこととか、ラブロフ外相がウクライナがNATOに加盟しないことを約束するなら、侵攻前の領土を保障しても良いというようなことを言い出しています」
「プーチン大統領も同意見ですか?」
「その辺りの意思疎通は分かりませんが、強気一辺倒の彼の口からそういう発言が出ること自体、戦況が余り芳しくないと認識している証拠だと思います」
「プーチン大統領には、現場の状況が届いていない可能性もありますものね」
「そうですね。その可能性が高いと思っています」
「ところで、そのプーチン大統領はロシアとウクライナは兄弟みたいなものと言っていました。実際には、どうなんですか?」
「ロシア人とウクライナ人は同じ民族で、同じ歴史を歩いてきた仲間です。共に9~10世紀頃北欧に居住していたルーシ族に起源をもちます」
「血を分けた兄弟民族なのですね」
「ただ、ウクライナはロシア人を民族の正統な後継者として認めていません。簒奪(さんだつ)者、つまり強奪者と捉えています」
「その辺りの歴史を振り返ってみたいと思います。ここからが本論です ↓」
「タタールのくびき」
「タタールのくびき」と言っていますが、モンゴル人による支配を表した言葉です。「タタールのくびき」については、このブログで前に紹介しましたので、詳しく知りたい方はそれを見て下さい。ウクライナ人、ロシア人ともにモンゴルによる支配を受けることになります。
この時期に現れたのがコサックという騎馬武装集団です。コサックはトルコ語で「自由人」を意味します。このコサック部隊は反モンゴルの性格を帯びた組織で、トルコ人たちが中心となり、そこにウクライナ人、ロシア人といったスラブ人たちが加わる民族混合部隊だったのです。普段は、牧畜、狩猟、漁業を営み、時には武装集団を形成するというものでした。
ウクライナ人たちは、この頃の彼らの戦い方が自分たち民族の原点と考えています。ウクライナの国歌の中に「我らは自由のために魂と身体を捧げ、兄弟たちよ、我らがコサックの氏族であることを示そう」という歌詞があります。
(「NHKニュース」)
「ルーシ」からウクライナへ
モンゴル人による支配は1480年のモスクワ大公国の台頭によって終焉を迎えることになります。その後、16世紀にはモスクワ大公国のイヴァン4世が専制政治の基礎を固め、領土を東はシベリアと南は南ロシアまで領土を広げます。17世紀になるとミハイル・ロマノフを祖とするロマノフ王朝が成立をし、ウクライナ人はそれらの支配を受けることになっていきます。
ウクライナ人は「我らを拷問したピョートル一世、我らに止めを刺したエカチェリーナ二世」と言っています。ピョートル一世はウクライナ語を禁止し、彼らを農奴として農場で働かせたのです。ロシアのそういった抑圧的な政治から脱却しようとする動きが、19世紀後半から20世紀初頭にかけてウクライナの民族運動として起きます。ロシアは言論、出版活動を厳しく統制し、反ロシア的な人物を逮捕してはシベリアへの流刑としたのです。
この頃から、ウクライナ人は「ルーシ」という呼称をやめ、ウクライナと呼ぶようになります。
(新人物往来社/「ブクログ」)
第二次世界大戦で一番多くの犠牲者を出したのがウクライナ
1917年にロシア革命が起き、ソビエト連邦が誕生します。その時に、ウクライナは一旦独立をしますが、ソ連はその独立を認めず、1917年にソビエト・ウクライナ戦争が勃発します。4年の激戦の末、ウクライナは制圧されソ連邦に編入されます(1922年)。
第二次世界大戦で独ソ戦の主戦場となったのがウクライナです。国土が焦土となり、ウクライナの死者は兵士、民間人合わせて800万人~1000万人と推定されています。ドイツが約500万人、日本は約300万人と言われています。統計上はソ連の犠牲者の中に入れてしまうので、余り気付かないのですが、実は一番多くの犠牲者を出した民族なのです。
1971年、キーウの北110km、チェルノブイリ市郊外にソ連が原子力発電所を建設します。もちろん、ウクライナに何の説明もありません。ソ連がウクライナをどのような存在として捉えていたのかが、これだけでも分かります。1978年に原発を稼働させ、1986年に事故が起きます。
次回にこの続きをしたいと思います。
(世界の立入り禁止スポット/「TABIZINE」)
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