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歴史認識という「色眼鏡」(1) ―— 具体的に歴史を追い掛ける / 明治の藩閥政府は思い付いたように行動した

  • 2024年10月12日
  • 2024年10月12日
  • 歴史
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「歴史をどう捉えるかという問題があります」

女性

「いきなり哲学的な問い掛けをするのですね」

「歴史認識という言葉がよく使われますが、その言葉が飛び交っている間はダメだと思っています」

女性

「それはどうしてですか?」

「歴史事象をどのように認識するかというのが歴史認識の意味ですが、どうしても主観的なものにならざるを得ません」

女性

「対象とする歴史事象を共通なものにすれば良いのではないかと思いますけど……」

「仮に対象とする歴史事象を共通にしてもズレが生じます。人間は同じものを見て違うことを考える動物だからです。その人の立場や国籍などによって異なった見方が提示されることになります」

女性

「ということは、日韓の間で話し合っても決着がつかないということですか?」

「今までもそうでしたが、これからもそうなるでしょうね。例えて言えば、お互い色眼鏡を掛けてモノを見ているようなものです」

女性

「フッ(溜息)。決着するためには、どうすれば良いでしょうか」

「まずは「色眼鏡」を外して歴史を見つめる努力をすることから始めないといけないと思っています」

女性

「色眼鏡を外せないと言ったらどうしますか?」

「永遠に真の和解が訪れることはありません。韓国の今の政権は非常に日本に親和的ですし、若い世代の間で人的交流が進んでいます。ある意味、チャンスだと思っています。朝鮮半島や中国大陸に大きな動きがある前に、真の和解に向けて動いて欲しいと思っています」

女性

「ここからが本論です ↓表紙写真は「新刊JP」提供です」

 歴史認識という「色眼鏡」で見ればすべてが歪んで見える

歴史事象を並べて、それを歴史認識という名の主観によって歴史をお互いに解釈し始めれば延々と論争が続き決着することはありません。簡単に言えば、同じものを右から見る人と、上から見る人がいて、どちらのポジションが正しいのかを言い争っているようなものだからです。

さらに歴史認識を主体としての歴史解釈は恣意的な解釈となりがちですし対象として選ぶ歴史事象も、時として自分に都合の良いものを選ぶということが起き始めます。二重三重の意味で不正確な歴史の捉え方になります。

そもそも歴史とは何なのか。少なくとも、その国についての断片的な記録の集積であってはいけないと思いますが、現在の歴史学会の主流的な考え方は多くの史実を積み重ねて、それを史観によって分析するという考え方です。国も一つの組織なので、まず第一に組織である国を動かした人、もしくは団体を中心にした記述にすべきです。そして第二に、それが社会に与えた影響を因果関係に基づいて解明すべきです。さらに第三に、広く国民レベルにまで広がった運動や文化として結実したものがあれば、それについて書くべきでしょう。歴史は「日記」のようなものであってはならず、主体が明確になって因果の流れが明確に分かる「作文」でなければいけないのです。

(「www.amazon.co.jp」)

 具体的に歴史を追い掛ける

話が少し抽象的になってしまいましたので、具体的に歴史を追い掛けてみたいと思います。日本と朝鮮とのぎくしゃくした関係は明治が起点です。明治維新は薩長土肥を中心とした勢力のクーデターですが、その藩閥政府が中心となって近代の歴史を動かしていくことになりますその政府が朝鮮半島にどのようにアプローチしたのか。まず、そこを検証しなければなりません。

注意することは、理由は関係ないということです。行動の態様にすべての思いが凝縮しているはずだからです。それから、現在は韓国なので李氏朝鮮とは関係ないのではないかという意見を言う方がいますが、同じ民族である以上、連続的に考える必要があります。

改めて日本と半島との接点という観点から調べていくと、1875(明治8)年の江華島事件に突き当たります。日本の3隻の軍艦が釜山港に侵入し、発砲演習をします。相手は当然のように応戦しますが、日本軍はそこから離れるどころか、上陸して城壁を占領して焼き払ってしまいます。そしてその後、軍艦・輸送船6隻を率いて朝鮮に乗り込み、同年に「日朝修好条約」を締結します。アメリカが日本に対して行った砲艦外交をそっくりそのまま朝鮮に対して行ったのです。

(「西日本新聞」)

 藩閥政府は思い付いたように行動した

そのような行為は現在は明確な国際法違反です。しかし当時は特に問題がなかったはずとの主張が出されることがありますが、そのような方便・論理を持ち出すと真の検証が出来なくなりますし、和解・友好の障害となります。あくまでも両者の間のやりとりがどうであったのか、純粋にその因果関係を調べる必要があります

日朝修好条約を締結した真の目的は何だったのか、その狙いは第1款の「自主之邦」にあります。当時は朝鮮と清は宗属関係にありました。ただ、それは古代からの歴史の中で形成されたものです。その切り離しを画策したのです。何のために。1910年に朝鮮を併合しています。それに向けての第一歩だったことが分かります。

極東のその地域は中国、朝鮮、ロシアの3国の微妙なバランスの上に成り立っていた地域だったのです。とにかく、明治の藩閥政府は国内の歴史はもとより、アジアの歴史を一切学ぶことなく、思い付いたように行動します。思い付きで半島に足を向け、清との宗属関係を切り離したため半島にエアポケットが生じることになります。それを見てロシアが南下することになります。彼らは基本的に太平洋に足掛かりを得たいと強く思っていたからです。願ったりかなったりだったと思います。一つの行為が日本側にロシアを引き込むことになったのです。

紙数が尽きました。次週、この続きを書きます。

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