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歴史認識という「色眼鏡」(3) ―— 権力者・為政者の思いや欲望は行動に表れる / 歴史観という主観的なメガネで判断するとモレが出る

  • 2024年10月19日
  • 歴史
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女性

「前回のブログで、日清戦争まで辿り着きました。元々の始まりは、歴史をどう見るかということだったのですよね」

「歴史認識ということが盛んに言われていますし、それによって歴史事象を視るのが正しい歴史の見方だとされています」

女性

「違うとおっしゃりたいのですよね」

「そうですね。歴史認識という主観的なもので歴史を判断すれば、必ず歪んだ認識となります」

女性

「私が習った歴史は歪んでいたとでも言うのですか?」

「間違いなく、歪んでいたと思います。歴史は歴史を進めた主体を中心に描くべきですが、今の子供たちが習っている歴史は断片的な事実・事象の積み重ねになっています」

女性

「それだと、どのような問題があるのですか?」

「何を事実・事象として選んでくるのか、その段階で主観的な価値観が入ってしまいます。」

女性

「結局は、主観と主観のぶつかり合いになるということですね」

「結局はそうなってしまいますし、関連の事象を集めて書き込めば、それが歴史となる訳ではありません。為政者が自分の思いや欲望をこの社会の中で実現しようとしますが、それを明らかにして、それが時代の中でどう展開し、どのように社会的に影響を与えたのかというところまで追い掛ける必要があります」

女性

「そういう観点で明治の始めから日清戦争までこのブログで見てきた訳ですが、政権の主体がどちらの方向に向いて、どの程度進みたいのかが、何となく理解できたつもりです」

「歴史は日記のように書くのではなく、主語を明らかにして、自分の気持ちが分かるように、作文のように書き記す必要があるのです」

女性

「ここからが本論です ↓ 表紙」

 権力者・為政者の思いや欲望は行動に表れる

歴史で一番大事なのは、権力の主体とその権力が何を望んでいたのかということです。それが国家を動かす方向を基本的に決めるからです

それは会社を考えれば分かることです。会社のトップの考え方と采配によって、会社の進む方向が決まります。ただ、考えだけでは会社は動きません。トップの思い・考えを具体的に動かすためのシステムと人員配置が必要です。思いとシステムと人員配置の3つが揃えば、会社は動き出します。国も同じ理屈で考えることが出来ます

こう書くと、会社のトップの思い・考えは分かるが、国の場合は規模が大きすぎて分からないのではと思う人がいるかもしれません。権力者・為政者の思いや欲望は行動に表れます。そして、継続的に進めたいと思った場合は、法制度をつくります。それで分かります。

(「白井経営コンサルティング事務所」)

 明治藩閥政府の一番の望みは権力の掌握

一種のクーデターによって政権を掌握していますので、彼らの一番の願いは政権基盤を安定させることにあったでしょう。物事の発想を全てそこから考えるはずです。

「王政復古の大号令」や「五箇条の御誓文」を大きく評価するというのが多くの歴史学者の見方ですが、そのような理念を掲げて多数派を形成して権力を奪取したならば、そういう扱いになるのでしょうが、そうではありません。それらは、政権基盤を安定させるために利用されたと考えるのが正着だと思います。

政権基盤を早く安定させたいという気持ちがあったはずなので、明治の初め頃に出された施策の中に為政者の本音が入っているはずです。1869(明治2)年の版籍奉還、1871年の廃藩置県、文部省の設置、1872年の徴兵令と、次々と政策を打ち出します巧妙なやり方だと思うのが版籍奉還と廃藩置県です。版籍奉還で領地と民を朝廷に返還させ、その見返りとして旧藩主を知藩事として任命して旧藩主の協力を仰ぐポーズを見せます。そして2年後に廃藩置県を断行して、知藩事を罷免します。当然不満が出ますが、それが大きな塊にならないように藩主を華族、藩士を士族にして禄を支給するようにします。さらにその2年後には禄の支給を止め、代わりに5~14年分の禄を公債(国債)で支払ったのです。その年には廃刀令を出しているので武士階級は消滅することになります。

政権は藩閥政権ですので、他藩が権力闘争に乗り出してくることが一番心配だったのです。足掛け6年で武装解除ができ、さらに政権を守るための軍隊を育成することも出来ました。後は、この政権を正当化するための教育を全国的に展開することです。他の省庁よりも一早く文部省を設置したのは、そういった思惑があったのでしょう。

(「中学受験ナビ」)

 歴史観という主観的なメガネで判断するとモレが出る

ここまでは、どの国の政権担当者でも考えそうなことです。問題なのは、徴兵制によって作った軍隊がなぜ朝鮮半島に向かったのかということです。古代の時代ならいざ知らず、近代において隣国を攻撃し、最後は併合するという、前代未聞のことをしてしまったのです。そんなことをすれば、未来永劫にわたって良い関係が築けなくなる恐れが出てきます。なぜ、そういうことが分からなかったのか。前回のブログで書きましたように、目の前のことしか見えていないという日本人の悪いクセが出たのです。

調べてみると、征韓論はかなり早いうちから政権の中枢部から出ています木戸孝允が1869(明治2)年正月1日に「征韓ノ一条ヲ大村益次郎ニ相計ル」と書いています。木戸孝允は政権中枢部の人間であり、岩倉使節団のメンバーとして欧米を周っています。「征韓」の考えが、その欧米視察の中で膨らんだということでしょう。そして、1877年に西南戦争が起きます。これは見方を変えると、旧武士団と徴兵制によって集められた軍隊の戦いでした。後者が勝ってしまいます。プロに素人軍団が勝ったことにより、藩閥政権は自信を深め、富国強兵の旗印を高く掲げるようになります。

その一方で元老院というシークレット・キャビネットを作ります。内閣総理大臣は元老院の推薦を経て、天皇が任命します。薩摩藩4人、長州藩4人と公家1人、計9人の構成です。長州藩からは、伊藤博文、山鹿有朋、井上馨、桂太郎。薩摩藩からは、黒田清隆、松方正義、西郷従道、大山巌。公家は西園寺公望です。このメンバーは固定制なので、欠員があっても補充はしません。最後に残ったのが西園寺公望です。彼が亡くなったのが1940(昭和15)年ですが、それは同時に元老院がなくなったことを意味しているのです。

このことを扱っている歴史本が殆んどありませんが、戦前の政治を裏から操っていた組織です。こういった制度に時の権力者たちの思いや欲望が反映しますので、これを見逃すことはあってはいけないと思っています。歴史観という主観的なメガネで判断すると、こういうモレが出てくる恐れが充分あるということです

(「世界の歴史まっぷ」)

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