「今日は、十七条の憲法と五箇条の御誓文を繋ぎ合わせようと考えています」
「昨夜、その2つを見比べていたのですが、どう考えても引っ付かないと思いますけど……」
「普通に考えれば、そうかもしれません。ただ、両者ともに、当時の朝廷の最高権威者が示したものなので、そういう点では共通の土壌があると思います」
「繋ぎ合わせというのは、そういうことですね。そうすると、何が共通かを考えれば良いということですね」
「「和」という理念によって繋ぎ合わせが出来ると考えます。それが理解できれば、大日本帝国憲法への橋渡しができると考えています」
「そんなことを今まで言った人がいるのですか?」
「いないですけど、そんなことは関係なく、問題なのは論理性と説得性だと思います」
「分かりました。本題に行きましょう。聖徳太子は「和」を唱え、それが後の時代に、どのように受け継がれたかということですよね」
「大政奉還となりましたが、明治天皇はまだ15歳です。お付きの者たちが、今後の日本をどうするかと考えた時に手掛かりとしたのは、今までの歴史と伝統でしょう」
「私が天皇だったら、返されても困るんですけど、と叫ぶかもしれません」
「日本ならではの謙譲の美徳みたいな力学が働いたのだと思います。細かいやりとりはともかくとして……」
「朝廷と国民が力を合わせて今までの国難を乗り切ったという認識だったでしょうか」
「そういった様々なものの根底に流れていたものが「和」ということではなかったのかなと思います」
「ここからが本論です ↓」
「和」に日本の政治のやり方が詰まっている
「和」という考え方は、一体どこから来たのでしょうか。聖徳太子のひらめき的な発想ではなく、それまでの日本の歴史の中から汲み取ったものだと思われます。なぜなら、聖徳太子が心血を注いだのが国史たる旧事本紀の編纂ですが、その編纂にあたって、読む人間の立場や感想を入れるなど、「色付けをしてはならない」と周りのスタッフに厳命していたからです。
何故、厳命していたのかと言うと、歴史や伝統の「バトン」というものは、途中で誰かが脚色するものではなく、長い年月の中で培われたものを、そのまま次世代に受け継ぐべきものだと考えていたからです。そして、彼は、それまでの歴史や伝承の中で何を受け継ぐべきなのかを考えたのだと思います。その結論が「和」という1字だったと思います。
(「PR TIMES」)
「和」は日本の歴史から導き出されたもの
「和」という視点で改めて古代史を見つめてみると、2世紀の後半にあったとされる倭国の大乱が思い浮かびます。「魏志倭人伝」や中国の複数の史書に記述が見られますので、相当な大規模な反乱だったと推測されます。
日本史上初の大規模な内乱という説もありますが、「魏志倭人伝」によれば、30の小国群が邪馬台国の一人の女性を王とすることにより、乱は鎮まったとされています。この女王が卑弥呼(ヒミコ)です。これは余談ですが、「邪」や「卑」といった蔑称を使っているところが中国らしいと思っています。邪馬台はヤマトであり、卑弥呼は「日(ひ)の巫女(みこ)」だからです。つまり、邪馬台国も卑弥呼も、中国の漢字の当て字です。当時は、重要人物の名前は国家機密です。言霊(ことだま)信仰もありましたので、名前を知られて呪い殺されては大変という考えもありました。ヒミコというのは官職か地位を表す名称だと思います。それにも関わらず、中国の表記をそのまま日本が使っていますが、それもどうかなと思っています。
それはともかくとして、ここで注意したいのは、ヒミコは女性なので権力者ではないため、力で乱を鎮めたのではなく、多分その前に関係諸国の話し合いがあり、その結果ヒミコを自分たちの王として擁立することを決めたと思われます。つまり、ヒミコに女王になってもらい権威を与えて、それを諸国の王が承認をして乱が収まったというのが、およそのところでしょう。それを「古事記」神話の天照大御神が天の岩戸から出てきた場面として描いたのではないだろうかと思っています。その根拠は、『古事記』の天の岩戸の場面です。よく読むと、天照大御神が外を覗こうとした時に、戸の近くに隠れていた神によって力づくで引っ張り出され、すかさず別の神がしめ縄を張って「戻ってはいけない」と言うのです。多分、ヒミコは私なんかと思っていたところ、周りの圧力を受けて女王の地位に就かされたのでしょう。天照大御神の場面と2重写しになって仕方がないのです。どなたか、その辺りを研究されていないかなと思っています。
(「教科書をわかりやすくする通訳サイト」)
さらに『古事記』の中には、イザナギ、イザナミの二神が「天(あめ)の沼(ぬ)矛(ぼこ)」を使ってかきまわして島を作る場面や、天照大神が天(あまの)岩屋(いわや)に隠れた時に、神々が善後策を講じるために集まったり、大国主命の国譲りの場面でやはり神々が相談をしたりする場面があります。重要な場面では、必ず協力と話し合いが行われています。つまり、「和」をベースにして書かれていると思われる箇所が何カ所かあるのです。
聖徳太子はそのような過去の経験を踏まえつつ、有力豪族がひしめき合うという当時の国内事情に鑑みて「和」というメッセージを発したのではないでしょうか。「和」は訓読みで「なごみ」と読みます。憲法十七条の直接の名宛人は役人ですが、その延長線に国民を見据えて、国が一つにまとまって和んで欲しいという願いをその文面に込めたと思います。その「和」の理念が時空を超えて、明治の時代に結実をすることになります。
明治政府は「和」の伝統のもと、国難を乗り切ろうと考えた
徳川幕府から政権が返還され、明治政府の政治方針が五箇条の御誓文として示されます。これは「治(し)らす」者である天皇が神に誓うという形をとりつつ、新たに「うしはく」する者も含め、すべての国民に対して、今後の日本のとるべき方向性が示されています。「シラス」「ウシハク」というのは、日本の伝統的な統治の仕方です。簡単に言えば、権威と権力の分離原則のことですが、有史以来現在においても、この方式で行われています。
(「流れる雲のように」)
欧米列強の植民地競争の只中にあって、その軍事的圧力をひしひしと感じつつ、国内を掌握し切ってない中での新政府の船出です。「我国未曾有(みぞう)の変革を為さんとし、朕躬(ちんみ)を以(も)て」と、大変な時代だからこそ、国民と「和」をもって邁進したいという気持ちです。当時の天皇は、まだ15歳です。周りのお付きの者たちが、日本の伝統にのっとって宣言文書を書いています。この大方針は、日本に連綿と伝わってきた考え方を改めて述べたものであり、これに基づいて近代日本の制度設計、さらには大日本帝国憲法の制定がなされていくことになります。
一、広く会議を興し、万機公論に決すべし
国や会社も含めて、すべての組織は公明正大に運営し、お互い胸襟を開いて話合いをして物事を決めること。
一、上下(しょうか)心を一にして、盛に経綸(けいりん)を行ふべし
経綸というのは、国の秩序をととのえ治めること。みんなが住みよいと感じる国にするためには、上に立つ立たない関係なく、みんなで心と力を合わせる必要がある。
一、官(かん)武(ぶ)一途(いっと)庶民に至る迄、各(おのおの)其志を遂げ、人心をして倦(うま)ざらしめんことを要す
倦(う)ますは儒学者がよく使う言葉で、うんざりするの意。国民各自それぞれ人生の目標を掲げて行動することが大事。周りの人たちの希望を失わせないようにしなくてはならない。
一、旧来の陋習(ろうしゅう)を破り、天地の公道に基づくべし
個人でも団体でも引き継いできたものの中には、悪いものもある。基礎、基本、原点に立ち返って何が善か悪かを判断し、悪しきものがあれば捨て去ることが大事である。
一、智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし
智識は仏教用語で、単なる断片的な知識ではなく、社会や個人の生き方にとって重要な
教え。世界に目を向けてその摂取に励み、その成果を国の発展と繁栄のために役立てて欲しい。 (※太字は原文、細字は現代語訳)
戦前を天皇独裁国家であったかのように思い込んでいる人もいるかもしれませんが、御誓文を読めば、そのような誤解も無くなるのではないかと思います。そもそも、独裁政権は短命に終わることを、すでに古代8世紀の時代に見抜いていたのです。だからこそ、会議の大切さを神話に託して後世に伝えようとしたのです。御誓文の一番最初の「広く会議を……」の教えは、国家のみならず、あらゆる組織に通用するまさに至言とも言うべき教えですし、そこには天の岩戸の前で困った神々たちが思案し、聖徳太子が国内外の難問に悩んだあげくに到達した手法だったのでしょう。そして、それらの根底には「和」という理念があったのです。最初の三か条は、言葉を変えながら「和」の精神を国民に向けて発信しています。
今は令和の時代ですが、国内外において様々な難問に囲まれています。「和」の理念を思い出して、一つの国としてまとまることが大事だと思います。野党連合では対立します。古い階級史観で社会を視る時代ではありません。与野党連合でしょう。令和という元号には、そういった天からのサゼッションが込められているのかもしれません。
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