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日本の教育――全国一律という発想をやめる時代

  • 2019年12月7日
  • 2019年12月9日
  • 教育論
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日本という国は、政治は民主主義体制であるが、教育については中央集権体制である。文科省という一行政機関が権限をもって、全国一斉に画一的な教育を行っている。検定教科書を使って、ほぼ同じ内容を全国一律に教えさせて、大学入試まで全国共通テストで行おうとするようになった。このことの問題点を、国会やマスコミが指摘したという話を寡聞にして知らない。

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(マイナビ)

   共産主義国でそのまま使えるような全国一律教育を日本は行っている。「産経抄」(2019.2.2日付)は1994年の日教組と文科省の歴史的和解により、文科省が日教組の影響を多大に受けていることを暴露した。前川喜平という反日的な考えをもった人物が文科省の事務次官であったことを見ると、相当浸食が進んでいると思った方が良い。

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ちなみにアメリカは日本の文科省のように、教育行政を一元的に統括する組織はない。教育課程は州ごとに策定されるので、義務教育年限(アメリカは高校までが義務教育)や教育課程も州ごとにまちまちである。権利教育と言うならば、アメリカのシステムの方が理にかなっているであろう。

無題
(ライフハッカー)

話を元に戻す。大学入試だが、戦後しばらくの間は各大学で行われていた。1979年に国立大学入試に共通一次試験が導入され、それがセンター試験となり、そのうち私立大学も利用してよいとなり、ついには全国共通テストになってしまった。「改革」と言っているが、完全にやっていることが真逆である(「逆もまた真なり」と言わないように)。記述式テストまで全国一斉に行おうとして、採点が難しいということで、さすがにここにきて「待った」が掛かり始めたというのが今の状況である。

大学は専門の学問を深めるところであり、就職のためのステップ機関ではない。専門分野に応じて求められる能力や適性は違って当たり前である。外国学部の英文科であれば、ヒアリング、スピーキングは外国での日常生活に不便がない位のレベルは欲しいだろう。文学部の国文学であれば、そのような力はなくても古文書が読めるくらいの力があれば合格させても構わないだろう。

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(信州大学)

     人は機械ではないので、個性もあり適性や能力の違いがある。全国一律にすべてのことを行おうとすれば、  必ず「ひずみ」と「ゆがみ」が生じる。それは学校現場では様々な現象として現れる。落ちこぼれ、登校拒否、いじめというのは、学校教育に対する拒絶現象の現れである。未知のことを知ることは、本来喜びを伴うはずである。社会的動物である人間にとって、友との交流は喜びのはずである。なのに、学校を舞台にして、いろいろ問題が起こるのは何故なのか。教育は一人ひとりの能力に合わせて提供されなければいけないが、そうはなっていないということである。「ギフテッド」と言われる才能ある逸材が日本で陽の目を見ない一因として、全国一律システムがあると思っている。

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    共通テストの発想は、中国で1000年以上にわたって行われていた科挙の試験そのものである。そんなこともあって「日本に学べ」ということで、中国から日本にしばしば教育視察に来るのではないかと思っている。先日、私の勤務校(私立中高一貫校)に20人位の視察団が中国から来たが、授業の様子から部活動など細かいところまで視察していたので、複雑な思いでそれを見ていた。

     科挙というのは、中国で行われていた全国一斉公務員採用試験のことであり、1000年以上の長きにわたって行われたものである。科挙の合格者の平均年齢が30歳代の後半という記録があるように、過酷な試験であったようだ。清朝末期の1904年に廃止となるが、科挙を合格して官僚となった者が、必ずしも実務者として優秀とは限らないということが分かったからである。科挙に合格するタイプの人間が固定化してしまい、ひいては国家組織の硬直化につながっていくと判断されたからである。                  実際に科挙廃止の10年前に日清戦争が起きて、日本に負けている。大国意識が強かった清としては相当ショックを受けたと思われるが、敗戦の遠因に科挙があった、という判断もあったのだろう。

ところで、どのようなタイプの人間が科挙に合格したのかというと、記憶力が良く、親が資産家、幼い頃から科挙合格を目指して勉強をした人間である。日本で言えば、科挙はさしずめ国家公務員採用総合職試験であろう。その合格者数(2018年度)が一番多かったのは、「東京大学」329人、ついで「京都大学」151人、「早稲田大学」111人、「慶應義塾大学」「東北大学」各82人である。

そのような大学に合格するためには、指導要領に示された標準単位で組んだカリキュラムの授業を受けているだけでは難しいと思っているし、東大・京大クラスはまず不可能と個人的には思っている。例えて言えば、テニスの世界ツアーをコーチなしで回るようなものである。そうすると、ある程度家庭の経済力も必要である。先般、文科大臣の身の丈発言があった。不適切発言であったが、内容的に間違っている訳ではなく、現実はその通りなのである。

ただ、そのようにして合格した者が各省庁に配属され、文科省もその省庁の一つであるが、その組織に日本の教育の未来を殆ど預けているのが現状である。『産経新聞』は記述式の混乱について、「社説」(2019.12.7)で「英語の民間試験見送りに続き、文科省の政策決定をめぐるお粗末さは猛省が必要」と書いているが、構造的かつ根本的な問題が含まれているのである。

 

 人づくりのカギを握るのが学校教育制度であり、入試制度である。それを中央から声を掛けて一本にまとめ上げようとしている。そこには2つの問題がある。そもそも一本にまとめ上げる必要があるのかということと、それの担い手を文科省に任せて良いのかという問題である。

50年位前の工業社会であればまだしも、時代はまさに21世紀、AIとの共存時代に突入しようとしている。共存と言ってもAIより上に行くことができて、初めて共存できる。AIができないと思われる能力、それは創造力であったり俯瞰力であったりするが、それを意識的に高めることをしないといけない。その旗振りの担い手にふさわしい組織の在り方を考える時期に来ている。それが手遅れになると、国の未来も暗いものになってしまう。

無題
(違いがわかる事典)

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