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日本共産党は党名変更をして、共産主義を放棄されたし / マルクスの見た「風景」と現代は違う

 すべての過ちは、経済学が未来予測能力を持っていると思ったところから起きている

学問というのは、データを集めて分析して、そこから法則を見出すのが眼目ですので、基本的には後追いという宿命を抱えています。だから、経済学や歴史学は人間が生活してきたことを経済的、さらには歴史的に整理するという視点の違いであって、後追いで法則性を探し出す、教訓を見出すという点では同じだと思います。

経済学理論は、対症療法の集大成です。アダム・スミスの時代は、イギリス産業革命期の時代なので資本主義の矛盾が殆ど露呈しない頃です。市場原理に任せておけば、全てが上手くいくような時代でした。スミスは「神の見えざる手」を唱えたのです

ケインズは経済恐慌(1929)の時、政府は有効需要を創出するための財政出動を説きました。当時は、金本位制の時代であり、均衡財政が常識の時代です。政府は国債の発行によって調達した資金を使って公共投資をしろという意見は、殆ど気違いじみた理論として多くの経済学者に受け止められたのです。

経済というのは、「生き物」なので「病気」になったり、「変異」したりします。そのような症状に合わせて、経済学者がその対処の仕方を提示してきたのです。だから、経済理論は人類が考え出した「対症療法」の集まりなのです。

かつて、この「生き物」をコントロールできると考えた人が現れました。いわゆる、計画経済です。資本主義経済は自由市場が前提ですが、そこでの様々な取引は価格が上下し、それを見て物流が多くなったり少なくなったりします。景気変動という言葉があるように、すべてのものが「波」を打ちます。この「波」をコントロールできるし、コントロールすることによって社会は進歩すると考えたのです。

それは、結局失敗に終わりました。実際に、ソ連邦の崩壊で証明されました。それ以来、生きていれば「波」があるのは当たり前と考えるようになっていきます。脳波や心電図をとれば、波形が出てきます。海や大きな湖には波があります。生きている限り、「波」というのは起こるものです。「波」をある程度コントロールすることはできますが、消し去ることは出来ません。逆に、「波」が無くなるということは、生命体の「死」を意味します。だから、今の市場経済はモノとサービスのやりとりがある限りは、半永久的に続くでしょう。

 経済は「生き物」のように「成長」する

 

マルクスが『資本論』を書いた時代の資本主義と現在の資本主義は違います彼が生きた時代は、イギリス産業革命が終わり、大量生産方式が普及をし始めた時代です。資本主義経済に少し「綻(ほころ)び」が見え始めた頃です。日本は、江戸時代の終わりから明治の初期の頃です

『資本論』を読む時は、彼が見ていた「景色」を念頭に読むべきであり、『資本論』をそのまま現代に当てはめようとすべきではありません。

そもそも、彼が『資本論』の冒頭で扱っている「商品」は1次産品もしくは単純な工業製品を想定しています。『経済学批判』の中で、例えばということで彼が例に挙げているものは「小麦、綿花、ガラス、紙」といったものです。そういったモノを生産する工場や会社があり、それを経営する資本家がいて、ほとんど無権利状態の労働者たちが働いている社会が展開していたのでしょう。

現代経済では、有形資産、無形資産ということばを使うようになり、その価値の総量を比較すると、すでに無形資産が有形資産を上回っています。実際に、世界のベスト10に入っている企業の業種を見ると、データ産業(IT産業)やサービス産業が殆どです。従来の目に見える「商品」を扱っている企業はわずか1社(サウジアラムコ)だけです。

モノの生産を前提に考えれば、多くの資本が必要かもしれませんが、無形のデータを扱う産業分野はパソコン1つで会社を興せますし、現に日本やアメリカなどでは大学生、大学院生が在籍しながら起業をするということが起きています

彼らが仮に誰かを雇ったとしても在宅勤務も可能です。そこで勤務する人の労働を、マルクスの言う「必要労働」「剰余労働」と区分けすることは不可能だと思います。ましてや、「搾取」という概念を持ち込むことも無理だと思います。

「必要労働」「剰余労働」「搾取」といった概念を彼は機械を扱う工場労働者を想定して使っています――「機械装置は、それがこなす個々のとるにたらない作業とは対照的に、巨大な生命体として立ち現れる。機械装置が登場すると、そこに具現化された労働自身が、労働過程のなかにある生きた労働に対する支配力として、立ち向かってくる。この支配力は、その形態からすれば、生きた労働を占有する資本にほかならない」(『経済学批判』)

彼の文章は言い回しが難しいので、読み進めるのが難儀なのですが、要するに機械が最新式のものに変われば、労働時間が短くなり、労働から解放されると思うかもしれないが、そういうことはない。機械はまるで生き物のように労働者の前に立ちはだかって、「剰余労働」をさせる時間が増えるだけ、つまり搾取する時間と量が増えるだけと言っています。

ただ、これはあくまでも今から150年位前の生産現場の経済的記述に過ぎません。現代は様々な権利や法規によって労働者は保護され、組合活動も許されている時代です。そして、AIの登場によりコンピューターが機械を管理する時代となり、人間はシステムを作る側にまわっており、このような原始的な生産様式は無くなりつつあります。いつまでも、古い生産様式を前提にした経済学をあてにする訳にはいかないのではないかと思っています。

 日本共産党は党名変更により、共産主義を放棄されたし

マルクスは、技術は当然進化するはずなので、資本はますます増強され、階級的地位は強固になり、労働者は相対的に窮乏化すると考えたのです。生産活動をするためには多くの資本が必要です。労働者たちがそれだけの資本を集めることは不可能、つまり労働者の地位は封建時代の身分制社会の如くに確固たるものになるに違いない。それは資本家たちも同じ、だから彼は、労働者階級、資本家階級という言葉を使ったのでしょう

ところが、豈(あに)図らんや。現代は資本金0円で起業ができますし、大企業といえども経営戦略を間違えれば奈落の底に落ちることもある時代です。「階級」という身分制時代の言葉を使う時代ではありません。

中国出身の改革派学者らでつくるアメリカの研究機関「中国戦略分析シンクタンク」というのがあります。そこが今年の1月1日付で提言書をまとめています。内容は、マルクス主義の理念を捨て、民主政治に移行せよというものです。「マルクスや共産主義を神のように信仰」し「専制に戻ってしまった」現状を憂い、「中華共生党」、「中国社会民主党」といった名称に変えるべきだとの提案をしています。

現代は階級国家ではありませんが、殆ど思い込んでしまっています。日本共産党の党員の多くはそうだと思います。現実に、国民には普通選挙権が保障され、その選挙に基いて国会が組織され、そこを母体にして内閣のメンバーが選出されています。民主政治が実現しているので、根本的に社会をひっくり返す必要は全くありません。共産主義というのは、革命理論なので攻撃対象は日本の国(国柄)そのものとなります。彼らが皇室制度をなくそうと考えているのは、そのためです。他の野党は政権の奪取を狙っていますが、それは革命ではありません。よく、立憲民主党の枝野氏がお互いに世界観が違うと言っているのは、そういうことです。

日本共産党が最終的に狙っているのは、日本沈没であり、日本国解体です。だから、結果的に反日の国の中国や韓国、北朝鮮に近づくことになり、売国政党的な行動をとることになりますし、現実にそうでした。ただ、最近は中国の尖閣での行動を批判していますが、多分に選挙に向けてのポーズだと思っています。革命のためならば、ウソも戦術なのでOKというのが、共産主義者の考えです。中国を見ていれば、そのことはよく分かると思います。まともに信じないことです。

日本共産党の元政策委員長の筆坂秀世氏は『日本共産党と中韓』(ワニブックス、2015)の中で共産党員に対して「正直な気持ちになって潔く過去を否定して新しい人生を始める勇気こそ貴重である。方針変更はよくあること、君子ですら豹変するのであり『過ちては改むるに憚ることなかれ』である。世間は大きく優しく温かいもの、必ず歓迎してくれるものである」と呼びかけています。


読んでいただいて、ありがとうございました。

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