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立憲主義は西欧社会が生み出した原理 / 国を治める原理は、その国の歴史の中から見出すべき

「護憲と改憲、憲法をはさんで国民と国民が対立をしているような状況があります」

女性

「私が知る限りにおいては、改憲派はユーチューブで集会を配信していましたし、護憲派は新聞1面に意見広告を載せていました」

「その意見広告は毎日新聞だったと思います。あれは何人位いるのでしょうか。ものすごい数の人の名前で1面を埋め尽くしていましたね」

女性

「両者睨み合って、肝心の憲法審査会もコロナのせいにされてストップしています」

「共産党と立憲民主党は何がなんでも憲法審査会を開かせないと思います」

女性

「完全に実力行使ですね」

「国会の本会議に上程されたら終わりだと考えているのだと思います」

女性

「不磨の大典でもあるまいし、逆になぜそこまで阻止したがるのか、よく分からないのです」

「不都合があれば、その都度国民の総意で憲法を変えるということで良いと思いますけどね」

女性

「なかなか、そういう風には考えが切り替わらないと思いますよ」

「あと、中国の工作が政党やマミコミに幅広く入っていると思います。「一帯一路」構想を推進する上で、日本は9条を抱えて大人しくしていて欲しいと思っているはずですから」

女性

「何もニュースには出てきませんよ」

「水面下でいろいろな攻防があると思います。しっぽを掴もうとする人たち、そうはさせじとうごめいている人たち」

女性

「一つの小説が書けそうですね」




 立憲主義は、西欧の混乱した社会が生み出した原理にすぎない

今あるすべての憲法論を疑え――権力をしばる立憲主義という原点に立ち返り、今必要とされる憲法について、山尾志桜里衆院議員が7人の論客とリベラルな立ち位置から徹底的に討論した対論集」。これは、立憲民主党の山尾志桜里衆院議員の著書の紹介文です。

「権力をしばる立憲主義という原点」という言葉がありますが、そもそも日本の社会において立憲主義を原点と考えること自体が間違っていますこの考え方は、西欧の社会が長い戦いの歴史の中で生み出した苦肉の原理です。

 西欧の社会には「原点」かもしれませんが、それをグローバールスタンダードであると思い込んでいるフシがありますが、西欧と日本とは、国づくりの考え方が全く違うので、それをそのまま当てはめようとすること自体が間違っています。地動説で国づくりをしてきた日本に対して、天動説を当てはめようとするようなものです。

そもそも西欧の歴史を紐解けば分かりますが、彼ら狩猟民族は先史から有史にかけて何千年にもわたって、主に狭いヨーロッパ大陸を舞台に、多くの民族が領土や宗教などをめぐって血みどろの戦いを繰り広げてきました国境線が変わるのは、日常茶飯事です。戦いに勝つためには、国王に多くの権限を集めて強権的な国にした方が良いという判断があったのです

強大になり過ぎた権力は、時に暴走して国民を弾圧することもありました。時代が近代となり、時の権力者に対抗するための論理が思想家によって生み出されます。それが権利であり、立憲主義であったのです。これらの原理が生まれた歴史的背景には、国民のことを何も考えない為政者たちの愚行が数多くありました。原理は、それに対する大衆側の理論的防御策であり成果に過ぎません。

人権宣言の先駆的な事例として考えられているのが、13世紀イギリスのマグナ・カルタです。「大憲章」と翻訳したりしますが、これは無能で横暴なジョン王の権力を抑えるために、貴族たちが中心となってジョン王と交わした約束の文書に過ぎません。さらに、17世紀から18世紀にかけてイギリスやフランスで市民革命が起き、権利文書が出されます。

権利文書というのは、簡単に言えば革命を正当化するための言い訳であり、屁理屈です。本来は国のリーダーである王を追い落とすことなどあってはならないのですが、その王がリーダーにふさわしくない場合は、民はその権利を使ってその王を排斥することができる、なぜならば王も民は同じ人間で平等だからだ、といったものでした。いわゆる社会契約説の考えに基づくものです

そして、フランスでは、革命によってルイ16世と王妃や血のつながった子供たちをすべてギロチンにかけて虐殺してしまいました。だから、フランスには王室がないのです。そのような血塗られた権利文書だったので、明治の日本人はその考え方をそのまま日本の憲法として適用することはできないと考えたのです。

 猿真似が嫌いな日本人が、ドイツ憲法を参考にして独自の考えでつくったのが明治憲法

大陸の狩猟民族と我々農耕民族とは、その置かれた自然環境の違いから、そのもっているDNAが違います。これについては、かつてこのブログで詳しく書きましたので、出来ればそちらをご覧ください。

日本の四方は、容易に乗り越えることのできない海に囲まれていました。ヨーロッパ世界のように他国と地続きになっていません。そのため、江戸時代までは殆ど国防のことを考える必要がありませんでした。この地理的条件の違いが、国づくりの考え方に大きく影響を与えます。

例えれば、ヨーロッパ世界は強豪チームがひしめき合うフィールド。優れた手腕をもつ監督のもと強力なチームづくりをすることが求められます。なぜなら、負ければ監督は首を切られるかもしれません。監督も必死なので、選手に時にはつらくあたることもあります。片や日本はのんびりしたもの。試合がないためか、監督も殆ど選手を指導せず、逆に監督と選手が和気あいあいとチームづくりをしたのです。

 日本人は、国を一つの大きな家族のようなものだと考えたのです。その辺りは、漢字の起源を探っても分かります。大きな家(大宅)が公(おおやけ)の意味に込められています。家族の長は何よりも家族の「和」が大事と考えたのです。国民はすべて家族なので臣民なのです。臣民を慈しむことはあっても弾圧することはありませんし、弾圧する必要もなかったのです

そして国が栄えるためには、権力と権威を分けることが必要だということを思い立ちます。何かをするためには力をもつ必要があります。その力を行使すれば、時には上手くいかないことがあります。当然です、人間は神様ではないからです。権力者が成功しても失敗しても国そのものが存続する必要があります。

そういった試行錯誤の中で生まれたのが、権威の象徴としての天皇制です。現行憲法で象徴天皇制が定められたのではなく、はるか昔、7世紀の時代に確立した原理です。

 明治の時代になってヨーロッパ世界との交流が本格的に始まります。彼らの基準によれば、近代国家は国旗、国歌、近代憲法があること。それではということで、憲法の制定に着手し始めます。近代憲法を学ぶための欧州派遣が行われます。主に学んだのは、ドイツです。ドイツは多くの州(ラント)に分かれていたこともあり、日本と国情が合うと思ったからです。

 しかし、そういったヨーロッパの国の憲法を調査すればするほど、日本とは異質の世界であることを肌で感じます。そして、彼らの使用している概念をそのまま使う訳にはいかないと考え始めます

そして、ここからが日本人の得意技です。日本人は猿真似が嫌いな民族です。漢字からひらがな、カタカナを編み出したり、日本的仏教を説き始めたりなど、その例は日本文化に枚挙にいとまがないほどあります。ある程度学びつつ日本流の憲法を作ってしまったのです。それが明治憲法です。




 明治憲法の起草者たちの切なる思いが、現在に伝わっていない

明治憲法の起草の中心メンバーであった伊藤博文と金子堅太郎が書いた論文が復刻版として売られています。金子堅太郎は「外国の憲法と日本の憲法とを併せて同一の理論を以て解釈することは抑々(そもそも)誤って居ると私は確信する」(「帝国憲法の精神」)と明治憲法の解釈について、くれぐれも西欧の人権理論を使って解釈するなと言っています


そして、金子はヨーロッパの国々の憲法の論評をしています。フランス憲法は問題外という判定。ドイツ憲法については、「独逸(ドイツ)の憲法は我が日本国憲法を起草するに当たり或る条項に就いては採用すべきものが多々あったけれども其の皇帝を以て機関の如く論定する精神に至っては我が日本国憲法に採用することはできなかった」と明確に述べています。

また、伊藤博文は明治憲法の第一条の「天皇之ヲ統治ス」について「所謂(いわゆる)『シラス』とは即ち統治の義に他ならず」と言っています。『シラス』については、昨日のブログで述べましたが、日本独特の家族国家観に基づく統治のあり方です

ところが、この明治憲法をドイツ憲法の猿真似と誤解した憲法学者が現れます。天皇機関説の美濃部達吉(1873-1948)です。その学説を宮沢俊義(1899-1976)が戦後に受け継ぎます。それが憲法学会の主流、東大憲法学の主流になって現在に至っています。狭い学者の世界なので、忖度が働き、師匠の説が忠実に受け継がれることになります。その結果、日本史、政治経済、公民などの教科書に明治憲法の誤った解釈が氾濫することになったのです。

1889年、天皇が国民にあたえるという形で、憲法(大日本帝国憲法)が発布されました。この憲法では、国を治める主権をもつのは天皇でした。また、軍隊を率いたり、条約を結んだりするのも天皇の権限とされました」(『小学校歴史』東京書籍)。

まず、「主権」という言葉を明治憲法は使っていません。今はインターネットで簡単に検索できますので、確認して欲しいと思います。その概念は、対外的に独立しているという意味と、対内的に誰が重要事項を最終的に決めるかといった2つのことを含む重要な概念です。但し、それはあくまでも西欧社会でのことです。                             海に浮かんだ島で、和気あいあいと過ごしていた国には、全く不必要な概念だったのです。西欧の言葉を日本で使っても、誰も分からないだろうということで採用されなかったのです。

 天皇は7世紀の時代において、権力の座から離れています。それが証拠に幼帝が日本には30人位います。その中には、悲劇の安徳天皇もいます。幼い子供でも天皇の地位が務まるのは、権力者ではないからです。ヨーロッパ世界では幼帝はあり得ないので、一人も存在しません。ちなみに大政奉還をされた時、明治天皇はまだ15歳になったばかりです。明治時代になって、急に天皇に権限を与えるはずがありません。少し考えれば分かることだと思いますが、小学校の教科書を使って刷り込みを図っているのです。

ついでに、「天皇が国民にあたえるという形」という記述もよくなされます。これについては、司馬遼太郎が「明治憲法は上からの憲法だといいますが、……とてもそういう皮肉っぽい言い方ができそうにありません。下からの盛りあがりが、太政官政権を土俵ぎわまで押しつけてできあがったものというべきです」(『明治という国家』日本放送出版協会.1989年/298ページ)と小説家らしい表現を使って論評しています。

 ウソで塗り固められたような教科書の記述だということが分かると思います。その結果、天道説が正しく、地動説が間違っているということになり、立憲主義を「原点」と思い込むようになるのです。偏差値が高い「優秀」な人ほど、思い込みが激しくなるような工夫がされています。文科省によって。

「今あるすべての憲法論を疑え」とありますが、山尾志桜里衆院議員に、そっくりそのままお返ししたいと思います。

読んで頂きありがとうございました

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