「2011年の3.11から10年経ちましたね。マスコミもそれに関連した報道を多くしています」
「あれから10年ですね。東京にいても凄い揺れでしたからね。電車が止まりましたからね」
「その日は、どうしたのですか?」
「ちょうど、入社して3年目位だったのですが、会社の来賓室で非常用の寝袋に入って寝ました。社内泊を経験しました」
「それは大変な目に遭いましたね」
「ただ、東北の方であんな大惨事になっているとは、思いもよりませんでした」
「ホントですよね。タイムマシンでもあれば、あの時間に戻って知らせたいと思いますよね」
「台風、津波、地震の脅威にさらされる国なので、平時からその覚悟は必要ですよね。だけど、災害は忘れた頃にやって来る、どなたが考えたコピーか分かりませんが、至言ですよね」
「私も至言だと思います。至言で思い出しましたが、戦前の東大の地震学者だった今村有恒氏は『地震は人の力で止めることはできないが、震災は人の力で止めることができる』と言っています」
「いわゆる防災に力を入れましょうということですね」
「今村先生は関東大震災(1923年)で被災しています。関東圏の家屋の7割が消失したと言われている大災害ですが、自分にも責任があると思い始めます」
「防災ということを周りに言えば良かったということですか?」
「そうなんです。彼は実行力があり、関東の次は関西で起こる可能性が高いので、防災のための講演活動を続ける傍ら、私費を投じて関西地区の数カ所に観測所を設けます」
「行動力がある方なんですね。本来は国がやるべきことですよね」
「一度当時の政府にやって欲しいと掛け合うのですが、予算がないと言って断わられます。それではということで、自費を投じて観測所を建てています」
「そういった人の行動を出来れば語り継いでいきたいですよね。ここからが本論です ↓」
目次
地域復興の鍵は文化であって、インフラ整備でもないし、産業育成でもない
2011年の3.11から10年の歳月が経とうとしています。新聞各紙が復興事業についての記事を一斉に掲載していますが、マスコミの報道姿勢は大きく3つに分かれています。
一つは、復興事業を国が率先してやるべきという立場からのもので、現状を見た場合、まだ不充分ということで何をやっているのかという批判的な意見です。二つ目は、批判的な立場は同じなのですが、提案を入れているという「建設的批判型」という立場です。そして三つ目は、被災者に寄り添いながら、復興の現状をそのまま正確に読者に伝えようとする立場です。
ただ、全国紙の震災関連記事を大方目を通しましたが、マスコミ自体が復興とは何なのか、という視点が定まっていないと思います。そのため、方向性にブレが出ていると思います。
字数の関係で、一つだけ具体的に指摘したいと思います。「建設的批判型」をとるのが『日経』ですが、前のめりになりすぎて、何を具体的に言いたいのかよく分からない「社説」(2021.3.8日付)を載せています。表題が「持続性高める復興へ平時から備えを」とありますが、「持続性高める復興」とは何でしょうか?
さらに本文には、よく分からない文章が続きます――「『復興文化』が平時から地域社会に根付くのを後押しすべきだ。創造的復興の素地もそこから生まれよう」。「復興文化」とか、「創造的復興」という言葉を使っていますが、具体的に何を言わんとしているか意味不明です。左翼寄りのメディアの典型的な書き方です。
つまり、普通に批判すると、単なる悪口で中身がないと思われます。中身があるように思わせながら批判をしようとすると、抽象的な文言を並べるという書き方になるという一つの「手本」みたいなものです。批判している方に、具体的な復興プランがある訳ではないのです。どうしたら良いか分からない、だけど批判をしておこうと書いた文章となっています。そういうのを社説で掲載することを、不見識と言います。マスコミならではの驕り高ぶりがあるのでしょう。
自然には対抗しない、自然との共存共栄を考えてきた
日本という国は自然が豊かな分、自然からの脅威をしばしば受けた国です。巨大な津波に何回も襲われています。そういう中で形成された自然観は、自然との共存共栄です。自然の中にカミを見い出し、カミとともに生きる道を選んだのです。哲学的に言えば、アニミズム(精霊崇拝)です。
自然の力に対抗することはしない。その点が、西洋人とは自然に対するポジションが違います。自然の前に、人間の力は無力なので、抵抗することはしません。それよりも、災害からの復興の中からの蘇生、つまり共同体としての立ち直りを図る中で新たな文化、さらには人の繋がりを見出すことの方が大事と先人たちは考えたのです。言ってみれば、禍転じて福となすように行動しようと考えたのです。
浅間山噴火の大災害の時にとった奇策
かつて浅間山の大噴火(1783年)があった時、火砕流や溶岩のため、ふもとの鎌原(かんばら)村の村民570人のうち、死者477人、生存者93人、93軒の家屋はすべて倒壊、荒廃地は95%に及びました。普通に考えれば、鎌原村は廃村となり、生存者は近隣の村に行くしかないのですが、隣り村の名主の黒岩長左衛門は生存者93人に、今から一つの一族となるようにと提案したのです。
当時は江戸の封建時代です。生き残った人たちにおいても、武士、商人、農民の身分の違いがあります。そういうことは関係なく、生存者93人は今から一つの一族になろうと言ったのです。それを受け入れてもらって、その後、家族の再編成を行いました。子供が亡くなった夫婦のところに、親を亡くした子供を新たな家族として組み入れます。夫を亡くした人と妻を亡くした人同士を夫婦として、さらには働き手の子を無くした老人に親を亡くした子を養子として縁組をして家族にしたのです。結局、93人は「骨肉の一族」の約束のもと10組の家族が「再構成」され、幕府からの850両の支援金もあり、翌年には11軒の家族からスタートできたそうです。その30年後には21軒となり、復興には100年かかりましたが、火山灰に覆われた土地は肥沃な台地として蘇り、嬬恋村の鎌原地区は今ではキャベツの名産地になっています。
東北の復興には、先人の知恵が生かされていない
日本列島はいくつかの大きなプレートの上に乗っかっているようなものなので、多くの自然災害とこれからも遭遇することになるでしょう。ただ、先人たちはそのことを見越していたように思えます。自然との共生、自然を鎮めるためにカミを祀る、それを共同体の行事として行う、いわゆる祭りです。自然災害が多いからこそ、日本には地域に多くの祭りがあり、神社があるのです。ただ、そこに人が集って文化を生み出し、人を束ねることをしてきたのです。
(「びゅうトラベル」)
翻って、東北の復興を見てみると、先人たちの自然災害に臨んだ考え方が生きていません。東北の災害地には、自然に対抗するかのように作られた高さを増した防潮堤、今までの住んでいた地域を離れ、高台に土地を造成しています。この考え方は、かつての時代にはなかったものです。防潮堤を高くするのは、単なる自己満足ですし、建設費がかさむだけです。一昔前の住民であれば、防波堤を高くすることはなかったと思いますし、災害にあった地域に再び住もうと考えたと思います。
そして、復興のためには、それを中心になって指揮する人あるいは組織が必要です。鎌原村の黒岩長左衛門にあたる人です。指揮者がいない状態では、地域がまとまる訳がありません。復興は単なるインフラ整備ではありません。復興担当大臣を決めていますが、令和元年代次安倍内閣の時の復興相は田中和徳氏ですが、令和2年内閣の時の復興相は平沢勝栄氏です。このように日替わりで変わるようならば、復興相を置く意味がありません。
読んでいただき、ありがとうございました。
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