(この文章は3/23日に書きました)
・江戸時代に日本的な学問と文化が開花したこと
・江戸時代にはどのような文化があったのか
・近代日本に向かうきっかけになったのは明治維新ではなく江戸時代であること
・「近現代」ではなく「近・近現代」と捉えるべき
といったことについて書いています。
日本の独自の学問である、国学が誕生します。
江戸時代に日本的な学問の花が開く
江戸時代は、大阪の陣が終わって豊臣氏が滅亡して以降、天下泰平の時代が延々と約250年位続きます。平和な良き時代であったと思います。「勤勉革命」と歴史人口学者の速水融氏により名づけられた生産革命により、食料生産は江戸時代を通じて右肩上がりで一貫していますし、それはデータによって確認することができます。
食料生産量が上がり、地方によっては余剰生産物が発生すると、それを売りさばく市場が形成され、流通する動きが出てきます。大阪堂島に米穀取引所が元禄元年(1688年)には、開設されています。ここでは先物取引がなされていたという記録があり、そうすると世界最初の先物取引所だった可能性があります。物品運搬についても、河村瑞賢らの努力によって、太平洋沿岸航路と日本海航路が確立します。
儒学が武士教育に取り入れられるようになり、大きく発展します。5代将軍綱吉の時に湯島に聖堂が創建され、これがのちに幕府直轄の学問所になります。幕府は儒学の一派の朱子学を奨励しますが、その確立期に活躍したのが林羅山です。林羅山は23歳の時に家康に二条城で面接を受けて、口頭試問3題を難なく答えて、その記憶力の見事さに感心した家康がブレーンとして抜擢したという逸話が残っています。
(林羅山の石像)
彼は、家康以降4代の将軍に仕え、江戸幕府の儒官を務めた「林家(りんけ)」の祖となったのです。そのように、朱子学が官学として幕府の保護のもと発展します。その他、儒学の流れを汲むものとして陽明学を中江藤樹が説き、伊藤仁斎が古義学を説きます。松平定信がたまらず寛政異学の禁を出すほど、多くの学問が世に出てきました。こういった学問の華が咲き、幕末にかけて各地で藩校、私塾、寺子屋が開設され、庶民の識字率も高くなります。そういったことが、明治の近代化を支える力となっていきます。
日本文化の華が開いた江戸時代
儒学の源流は中国なので、そのことに対する反発が日本の伝統的な文化や学問の成立を促すことになります。さまざまな芸能や武芸において、家元制度が確立したのも、この時代です。能楽は武家の公式の芸能となり、幕府によって保護の対象とされました。
松平定信の寛政の改革が終わりを告げた後、江戸文化の完熟期を迎えることになります。時代は十一代将軍家斉の時代です。『東海道中膝栗毛』に代表されるような江戸文学が登場します。俳句、歌舞伎、浮世絵、文楽、様々な和楽器などが世に出てきました。
幕末の江戸の様子をロバート・フォーチュンは
「この広大な都市は、一方は美しい江戸湾に接し、遠く地平線につづく海が、われわれの真下に一面に広がっている、ということにつきる。起伏や小丘のあるこの地所の到る所に庭が点在して、カシやマツのような常緑樹が生い茂っていた。……この立派な都市の人口は、約200万人と推定されている。……丘のほとりを長い間さまよって、前方に展開する美しいパノラマに見惚れていた。大君の白の外曲輪の見物に満足して、われわれは南のコースを取った。曲がりくねった道中は、時には横丁や庭を抜けたり小丘を越えて街路を通り、予定の時刻に英国公使館の門に帰着した」(『幕末日本探訪記』講談社学術文庫.1997年)
と書き遺しています。
「近現代」という捉え方ではなく、「近世・近現代」という捉え方をすべき
明治維新を境にして、近代日本に舵を切ったというのが、従来の捉え方です。そんなこともあり、2022年度から『歴史総合』が新しい高校の社会科科目として導入されますが、扱う範囲は近現代です。
開国によって西洋的な文物が日本に入ってきたことにより、新しい日本がスタートしたという考え方があります。しかし、表面的にはそう見えても、近世と近代は本質的には何も変わっていません。江戸の近世があつたからこそ、明治維新をさかいに近代日本が胎動し、現代につながっているという捉え方をする必要があると思います。
日本人はそれ程他律的な民族でないことは、古代史を見れば分かりそうなものです。大陸からのものを、そのまま移入しないで、日本流に加工しています。漢字からひらがな、カタカナを生み出し、鎌倉仏教は日本的なアレンジがなされています。本地垂迹説は、仏教と神道の融合です。
明治初年に神祇官が置かれますが、わずかな期間ですが、律令政治の時代の太政官、神祇官が復活します。明治5年に学制が発布されます。打ち出された方向は、「神儒習合」です。これは江戸時代と同じです。教育勅語の基底に流れるものは儒学の教えです。
大政奉還がありますが、これは将軍家に預けてあった政権を返還してもらい、今度は大臣にその政権を預けたというだけです。「臣」という名称も古代に使われたものです。明治維新というのは、天皇制という1つの王朝の中で起きた政権交代に過ぎません。
明六社という啓蒙思想家の団体がありました。そのメンバーの1人でもあった福沢諭吉について、
「徳川封建時代のものでも、護るべきものは護ろうという姿勢が諭吉のなかにすら濃厚にあった。また、彼は、文明開化をいうときも、創り出すべきは『国民の文明』なのだと繰り返している(ママ)。そして日本国民の衆論・国論こそが文明を支えるのだが、それは日本人の意識の習慣によってしか打ち固められないのだとも強調している。文明は、外国の文物を取り入れることによってできるようなものではないということである」(西部邁『国民の道徳』産経新聞社.2000年/62ページ)
つまり、「明治のリストレーションが維新であると同時に復古でもある、という二面性の構図が見えてくる」(西部邁 前掲書/62ページ)と言うのです。
さらに、従来からの日本の統治形態である「権威と権力の分離」の考えに基づいて明治憲法が制定されることになります(1889年)。ほとんどの教科書が「天皇主権」という間違ったことを書いていますが、完全に明治憲法の解釈を間違えています。
そもそも、明治憲法には「天皇主権」という言葉を使っていません。そして、多くの教科書がドイツ憲法を範としたと書いてありますが、これもウソです。明治憲法の起草作業に深く関わった金子堅太郎が書き遺した「帝国憲法制定の精神」という文章があります。
その中で「独逸(ドイツ)の憲法は我が日本国憲法(明治憲法のこと)を起草するに当たり或る条項に就いては採用すべきものが多々あったけれども其の皇帝を以て機関の如く論定する精神に至っては我が日本国憲法に採用することはできなかった」と、明確に述べています。
いろいろな国の憲法を一応参考にはしたけれど、日本が直接参考にできるようなものはないとして、さらに次のように述べています――「外国人には国体と云う文字の真髄は分からない、何となれば二千五百年以上も万世一系の天皇が連綿として君臨せられる国は世界広しといえども何処にもない。随(したが)って欧米の政治学者、憲法学者の頭には国体の文字が分る筈がない」(金子堅太郎 前掲論文)。
『歴史総合』は日本史と世界史の総合となります。通史的に捉えることが、ますます困難となります。歴史はその国の鑑(かがみ)で、国難に遭遇したり、国のアイデンティティを確認する時に紐解くものです。間違った時代の区分けをした上で、世界史をミックスしたものは、単なる知識伝達科目となります。
反日的な学者からすれば、江戸時代と明治時代を切り離した上で、明治の近代化は西洋文明の影響を専ら受け、そして戦前は政治的には暗黒の時代であったというバラバラの歴史を国民に植え付けたいのです。長い歴史と伝統・文化をもった国であると自覚されては、不都合だという判断があるのでしょう。『歴史総合』の導入には、そのような意図が隠されているのです
「近現代」ではなく、「近・近現代」というのが捉え方をしないと、日本人のアイデンティティを確立することができないと思います。
読んで頂きありがとうございました
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