ようこそ日本の危機へ!このブログでは主に最新のニュース、政治、教育問題を取り上げております。

これからの学校教育のあり方について(1)――文科省解体論

(この文章は2/27日に書きました)

この記事の著者
中高一貫校で社会科の教師として37年間勤務する傍ら執筆活動にも力を入れる。
著書多数。
「万人に合った教育はない」がモットー。
詳しくはトップページプロフィールより。
これからの学校教育のあり方について、話をしたいと思います
どうしたのですか、急に、改まって?
今、検索エンジンに引っ掛かるテーマが、これなんですよ。多くの方の声に応えるのが大事だと思ったからです。
こういうことを真剣に考えておられる人が多いということですよね。まだまだ、日本は捨てたものではないということですね。
どうでもいいと思えば、こういうワードで検索をしませんからね。ただ、その根底にある心理を探ると、今のままの学校教育ではダメなのではと思っている人が、結構多いのではないかと思います。
女性
なるほど。ただ、もう少し複雑なものがあると思います。
複雑なものを分解してもらえませんか。
女性
そこには、期待もあるし、漠然とした不安、これまでの教育で本当によかったのか、本来の学校教育の果たす役割などでしょうか。
あと、私は親として現在、子供にどういう教育を受けさせたらいいのかを悩んでいます。
そういった直接的な悩みから来ている問題意識が根底にあるかもしれません。どういう層の人たちが、どういう理由で、どういった内容を求めているのか、詳細は分からないのですが、教育行政のあり様(よう)と今の学校教育の動きを含めて、考えを述べたいと思います。



①文科省の歴史的使命は終わった

文科省の前身の文部省は、1871(明治4)年の三院八省制の創設の際に設立されていますので、149年の歴史があります。

創設当時の世界は、欧米列強の植民地競争の真っ最中で、極東地域はその争奪戦のターゲットでした。アヘン戦争(1840年)で大国清がイギリスに完敗したというニュースが日本にも入っています。近代化を急がないと、このままでは欧米諸国の植民地になるかもしれない、そういった切迫感と危機意識が漂っていた時代です。近代日本の担い手を急ぎ育てなければいけない、という使命感に燃えて文部省が設立されたのです。

文部省が次に考えたのは、全国共通語(標準語)を作ることでした。一つの国としてまとまるためには、情報を共有する必要があります。当時は国言葉(くにことば)、いわゆる方言はありましたが、国語はありませんでした。西洋文明を移入するためにも、西洋社会で使われている言葉を日本語に翻訳して日本社会に広める必要があります。学校にその役割を担ってもらおうと考えたのです。学校現場に「国語」という科目が登場します

初代文部大臣は森有礼、明六社という啓蒙思想家グループのメンバーです。彼が当時の文部省職員に示した「自警の書」が現在は登録有形文化財となっている旧文部省庁舎内の旧大臣室に掲げてあります――「文部省は全国の教育学問に関する行政の大権を有して、其の任する所の責、随(したがっ)て至重なり。……略……終(つい)に以て其の職に死するの精神覚悟せるを要す」。

教育行政の崇高な任務を自覚し、決死の覚悟で職責を全うして欲しいという彼の気持ちが滲(にじ)んでいます

次に文部省が歴史の表舞台で活躍するのは、戦後のことです。教育基本法、学校教育法を制定し、それに基づいて六・三制の導入による中学校までの義務教育の実施など、戦後の教育改革の実施主体となったことです。そして、戦後しばらくは学者大臣が文部大臣になっています。安部能成(よししげ/哲学者)、田中耕太郎(法哲学者)、高橋誠一郎(経済学者)、森戸辰男(たつお/社会思想家)、天野貞祐(ていゆう/哲学者)などです。

憲法68条によれば、国務大臣の過半数は国会議員でなければいけないのですが、それ以外は学者や財界人など民間人でも構わないのです。68条は、教育、科学技術に関わる省庁を想定して設けられた規定だと思っていますが、近年はその趣旨が生かされていません

2001年の省庁再編に伴って、文部省は科学技術庁と統合して文科省になるのですが、そこがまず、間違いのもとだと思っています。何かあればぐらつくような観光立国ではなく、科学技術立国、教育立国を目指して科学技術省と教育文化省(文化教育省)をそれぞれ創設すべきだったと思います。合体している場合ではなかったと思います

文部省のキャリア官僚として1975年から31年間勤められた寺脇研氏は文科省を「三流官庁」(『文部科学省』(中公新書.2013年))と言っています。他の省庁から見下され、「政治家の顔色を窺うだけの『御殿女中』」(同上、23ページ)から脱却するチャンスだったのですが逃してしまい、コンプレックスをそのまま引きずっていると思います。そのコンプレックスが天下りあっせん事件(2017年)を引き起こしたと思います。

その内部の機構がどうなっているのか、それはトップの人事やトップの考え方、問題行動を分析すれば大体の見当はつきます。トップの問題意識以上に組織は発展しないからです。トップの人事ですが、文科省になってから歴代大臣は20人にのぼります。2001年の省庁再編の時点で、文部省の歴史的使命は終わっていたのだと思います

日本の教育行政は中央集権体制です。その教育行政のトップが、毎年のように入れ替わる。こういったことを、国会は誰も問題意識をもたないのでしょうか。トップが誰でも務まるような組織に、今でも日本の教育をすべて託していますが、本当に良いのでしょうか

② 国家防衛のために文科省を解体せよ

先日(2/22日付)、「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書が検定不合格となったと『産経』が大きく報道していました。教科書調査官が一体どこの誰なのか、そもそも分からない、ということ自体、問題だと思います。闇から鉄砲を撃つようなもの。鉄砲を撃つ犯人の名前が分からない仕組みになっているので、大胆な行動もとることもできてしまいます。

「欠陥箇所」の理由を読むと、すべて「生徒にとって……」「生徒が誤解するおそれ……」と書かれてあります。生徒と言って一般化していますが、いろいろなレベルの生徒がいますし、そもそも、この調査官というのは、現場で歴史を教えている方なのか、と問いたい気持ちになります。そして、教科書というものは、あくまでも理解の一助とするものであって、教科書を渡したままにすることはありません。誤解は当然あるでしょう。だから、生徒が誤解をしないために教師が授業をするのです。

教科書検定は憲法21条が言うところの「検閲」にあたり、違憲だと思いますが、何故かこの問題について、「産経」以外は扱いが極めて小さいのです。同じ21条で話題になった「表現の不自由展」の時は、「朝日」「東京」「毎日」がハチの巣を突いた時のように大騒ぎをしたのに、どうしたのかと思ってしまいます。多分、それぞれの背後で動いている「勢力」が同じルートで繋がっているからでしょう

「表現の不自由展」についてはこちらもどうぞ

「産経」の論説委員の阿比留氏が「教科書検定 見えた左派の根」(2/27日付)という文章を載せています。その中で、かつては「外務省チャイナスクール」出身のメンバーの裏工作があったことが書かれてありました。「現在の教科書調査官の中には毛沢東思想の研究者も含まれている」(同上)とのこと。今回もその類の思想的グループが動いたと思われます。

中国は日本を見習って、国定教科書導入を準備しています。

左派勢力の史観は、日本の歴史を戦後と戦前に分けて考えるのが特徴です。スタートを日本国憲法の制定から始めます。そのため、それまでの伝統や文化を軽視して、隙あらばなくしてしまおうと考えます

なぜ、そのように考えるのか、と言えば、根底には大陸や半島の方々の嫉妬感情があると思います歴史がある、伝統や文化があるというのは、民族にとって誇りだからです。そして、憲法を境に全く新しい日本社会が生まれたとしておけば、原点である憲法を守れと言いやすいからです。憲法で日本を縛っておいた方が、良いだろうという判断が根底にあります。



最後に少し長いのですが、文化庁で国語調査官や国立教育政策研究所研究官として働いておられた有元秀文氏の言葉を紹介します――「文科省が次々と新しいことを言い出しては現場の教員を困らせる、その本当の理由を想像できるでしょうか。文科省の幹部は任期1~2年なので、その間に業績をあげて出世しようとします。そのため、任期中に何か新しいことに手を付けるのです。……外圧に弱いうえに身勝手な文科省をどうしたらいいでしょうか。それは文科省を解体することです。……せめてアメリカやイギリスの教育省程度に権限を縮小すれば、何もかも正常になることでしょう。いままで文科省が持っていた権限が強大すぎるのです」(『文部科学省は解体せよ』(扶桑社.2017年)

次回は、教育の不易流行について

つまり変えてはいけないものと変えても良いものについて書きたいと思います。

読んで頂きありがとうございました

併せて読みたい

最新情報をチェックしよう!