(この文章は3/1日に書きました)
中高一貫校で社会科の教師として37年間勤務する傍ら執筆活動にも力を入れる。
著書多数。詳しくはトップページプロフィールより。
(参考文献/ 櫻井雅人、ヘルマン・ゴチェフスキ、安田寛『仰げば尊し――幻の原曲発見』東京堂出版.2015年)
「仰げば尊し」
1. 仰げば 尊し 我が師の恩 教えの庭にも はや幾年(いくとせ)
思えば いと疾(と)し この年月(としつき) 今こそ 別れめ いざさらば
2. 互(たがい)に睦(むつみ)し 日ごろの恩 別(わか)るる後(のち)にも やよ 忘るな
身を立て 名をあげ やよ 励めよ 今こそ 別れめ いざさらば
3. 朝夕 馴(な)れにし 学びの窓 蛍の灯火(ともしび) 積む白雪(しらゆき)
忘るる 間(ま)ぞなき ゆく年月 今こそ 別れめ いざさらば
「仰げば尊し」は、卒業式の定番曲ですが、平成の半ば頃から歌詞が現代に合っていないということで取りやめたり、2番を省略して3番を2番にして歌うということが出てきました。台湾では、現在も卒業式の定番として「仰げば尊し」が広く使われているとのこと。本家の日本での取りやめのニュースは寂しい話です。
取りやめの理由として挙げられているのは、2番の「身を立て名をあげ」だそうです。立身出世を呼びかけていて、民主主義的ではない、ということなのですが、努力して立身出世することは批判されるべきことではありませんし、民主主義とは全く関係ありません。そして、そもそも立身出世の意味ではありません。
「身を立つるには道を行い、名を後世に掲げ、以て父母を顕すは、孝の終(おわり)なり」(『孝経』)を踏まえた言葉です。孝道を実践し心身の修養を目指すという考えを表したもの(加地伸行『<教養>は死んだか:日本人の古典・道徳・宗教』PHP研究所〈PHP新書〉2001年』)です。
しかしながら、無知というものは恐ろしいもので、「仰げば尊し」の2番がこの歌のまさに生命ともいうべき部分だからです。なぜ、それが分かるのかと言いますと、「やよ」という言葉で分かります。「やよ」は呼びかけの時に発する言葉で、「絶対に」とか「ガンバレ」といった気持ちを込めています。
式は厳粛に行われるものなので、感情を出すような表現は日本の場合はご法度です。卒業生同士お互いに、「私のことをわすれないでね」、「お前こそ、がんばれよ」、教師も卒業していく可愛い生徒たちに「頑張れよ、困った時は一人で泣かないで、母校に帰って来いよ」とお互い感情交流したいところを、やっとの思いで抑えて、絞り出した言葉が「やよ」なのです。これを2番は2か所で使っています。
そして、最後の3番は、感情交流した後、少し冷静になって日々使った学校と教室に思いを馳せ、それらに素直にありがとうと感謝の気持ちを込めて、長いようで短かった年月(としつき)を別れ惜しむようにして歌は終わります。
それを日本人の心情に合う哀調を帯びたメロディに乗せて、参列者一同で歌い上げます。まさに、卒業式に参列した人たちの心の交流がなされる一瞬です。思わずすすり泣く生徒も教師もいます。
気付かれた方がいると思いますが、「仰げば尊し」は1番から3番までで一つのドラマになっています。だから、これを1番と3番だけとか、1番、2番だけというのは、本来はあり得ないと思います。生徒たちのことを考えれば、1番から3番まで歌わせて欲しいと思います。そして、予行演習の時に、卒業生に歌詞の意味と歴史、それぞれの場面の意味を生徒に教え、当日は自分の想いをそれぞれの場面に重ねて歌いなさいと指導します。式当日、何人泣いてくれるか、その割合がその学校に対する生徒の評価です。
日本の学校教育の考え方の原型は、この歌の中に表れています。日本の場合は、単に授業を教える教員ではなく、生活全般を指導する教師という役割がありました。アメリカやイギリスでは、授業以外の業務は原則ありませんが、日本の場合は、授業は当然のこととして、部活指導、生徒指導、清掃指導、給食指導、交通指導やPTAへの参加、さらには地域によっては子供会の仕事もあります。そういう中で生徒と信頼関係を結び、それによる教育効果を期待しているのです。
日本には、母校という言葉があります。母は命を産み、育んでくれます。学校は生徒の個性を踏まえた上で、その能力を高め、人間としての礼節を身に付けさせるために、生活全般にわたる指導をします。学校は単に知識だけを教えるところではないというのが、日本の考え方です。だから、卒業の時に「わが師の恩」と最初に感謝される存在なのです。ただ、そのためには、教員ではなく、いつまでも子供たちの人生を指導できる教師を養成することと、その人数を増やす必要があります。
今の状況は、人間なのにスーパーマンになれと言っているようなもので、職場のブラック化が止まっていません。教員のなり手が少なくなっている上に、教員の質の劣化も止まっていないと思います。
ところで、先ほどの「身を立て名をあげ」ですが、それは人間として恥ずかしくない生き方をして、社会のために尽くして欲しい、それが親孝行でもあるという考え方が込められています。
教育は、個人の能力と個性の伸長だけを考えて行えば良いという考えがあります。それは当然のこととして、それプラス社会の成員として成長させることを教育の目的として日本では考えてきました。2つのことを追究する。そのためには、教員ではなく、教師でなければなりません。
今は、教育学部がないような大学でも教員免許は取れます。要するに、教職課程で40単位くらい余分に単位を取れば教員免許を取得できます。但し、10年という期限付きの軽いものです。
運転免許ではないので、書き換えしなくても良い位の「重い」免許制度の創設を願っています。
読んで頂きありがとうございました