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これからの学校教育のあり方(5)――教師と子供と学校のあり方について

(この文章は3/2日に書きました)

この記事の著者
中高一貫校で社会科の教師として37年間勤務する傍ら執筆活動にも力を入れる。
著書多数。
「万人に合った教育はない」がモットー。
詳しくはトップページプロフィールより。

 NHK「令和未来会議2020開国論」を見て

昨日(3/1)の夜の9時からNHK「令和未来会議2020開国論」を見たのですが、なかなか面白かったですよ
女性
開国論の意味は何ですか?
日本は従来方針を改めて、外国人労働者の受け入れ拡大に踏み切ったということです。
女性
ただ、条件付きなんですよね。
そうですね、専門職または特定技能者が原則ということです。それで、そういったことに関する議論ができるように、国内、海外を問わずどこからでも討論に参加できる大規模ネット会議システムを使ったのです。
女性
質問したい時や、発言したい時は、どうするのですか?
手元のボタンを押して、意思表示をします。誰かの意見に対して、賛成、反対の意思表示もできます。
女性
司会は、スタジオにあるのですね。
もちろん、そうです。あと、スタジオには、司会者以外に弁護士や国の関係者、外国人労働者を積極的に受け入れている浜松市の市長さんがおられました。
女性
外部の人は何人いるのですか?
40人ですね。全員モニターに映し出されています。そして、彼らの発言する様子が全部わかるような、大規模ネット会議システムです。
女性
今までとは違った言論空間なんですね。
「近未来の会議はこうなるんじゃあないか」と思いました。
女性
一種の直接民主主義ですね。国会はいらなくなるのでは?
もしかしたら、そういう議論が出てくる可能性があります。
女性
今回、安倍首相は半ば独断で休校を決めたのですが、そういう時は、国民と直接対話をした後に決める、とした方が良いかもしれませんね。
そうですね、あと、この未来会議でそういったことを含めて、教育問題をテーマとして取り扱って欲しいですね。




 教師論と子供論——日本はアバウトで捉え、西洋は分析的に捉える

今の日本の学校教育を概観して、その弱点は、子供を個性ある人格者として捉えきれていないところです。古くはルソー、さらにはペスタロッチ、モンテーニュ、ラッセルなどの教育論を採り入れ、学ぶ必要があります。「児童中心主義」と掛け声だけで終わってしまっている現実があると思います。子供の人権よりも、行政の都合優先の現実がしばし見られます

 子供に対して分析的に見るという考えは、日本では殆どありませんでした。子供という言葉自体が複数形になっていることから分かるように、日本は、集団として子供を捉えてきました。個性をもった存在としての捉え方が弱い、と思います。そして現在も、その弱点を引きずったままです。例えば、一斉授業という発想から、なかなか抜け出せません。発達障害や不登校になった子供たちへの対応が不得手なのは、そういったところに原因があると思っています

今回の安倍首相の「一斉休校」、あれがまさに日本人の子供に対する典型的な見方なのですアメリカのニューズウィークは「一斉休校でわかった日本人のレベルの低さ」と3月2日付で配信しましたが、この措置は西欧社会の人たちには理解しがたいものだと思います。

子供を個性ある存在と見て、それを社会が伸ばさなければいけないという考えを改めて確認する必要があるでしょう――「自然が絶えず子どもを訓練する」「子どもの力の限界を越えさえしなければ、力を使わせた方が力をセーブさせるよりも危険が少ない」(ルソー『エミール』明治図書.1985/38ページ)。「子供が6歳になるまでには、道徳教育はほぼ完成していなければならない」(ラッセル 前掲書/102ページ)などです。

次に、教師論です。日本では、扱いが軽くなっていますが、西洋では、どのように子供を捉え、どう接すればよいかということを、とりわけ重要視します。例えば、ラッセルです――「教師は、子供を国家や教会よりも愛さなければならない。そうでなければ、理想的な教師ではない」、「教師に愛情が欠けている場合には、性格も知性も、うまく、のびのびとは発達しない。」(『教育論』岩波文庫.1990年/56ページ)。

 ヒントは自国の歴史の中にあり――学校には2つの役割

子供や教師の捉え方を西洋の教育の考え方、あり方から学ばなければいけないと思いますが、学校教育のあり方は日本が伝統的に行ってきたことを踏まえるべきだと思います西洋と日本は国家観が違うので、当然教育のあり方もそれを踏まえて論じないといけないからです

単純に参考になるところと、そうではないところがあります。子供や教師を個として捉える視点は参考になりますが、学校という組織づくりや教育内容については、日本の従来の考え方のままで良いと思います。

渡部昇一氏は危機的状況から抜け出すための「ヒントは自分の国の歴史にある」(『決定版・日本史』扶桑社文庫.2014年)と言っています。続けて「幸いにして日本には世界に誇れる歴史がある。この素晴らしい歴史を鑑(かがみ)として、今一度、誇り高き日本を取り戻さなくて(は)ならない」(同 298ページ)としています。


そんな訳で、内村鑑三の『代表的日本人』(岩波文庫.1995)を紐解いてみることにしたいと思います。その中の「中江藤樹」の項に、「昔の教育」についての記述があります。

・「私どもは、学校を知的修練の売り場とは決して考えなかった。修練を積めば生活費が稼げるようになるとの目的で、学校に行かされたのではなく、真の人間になるためだった。私どもは、それを真の人、君子と称した。英語でいうジェントルマンに近い」

・「昔の教師は、わずかな年月に全知識を詰め込んではならないと考えたのである」

・「歴史」「詩」「礼儀作法」もある程度教えられたが、おもに教えられたのは「道徳」、それも実践道徳であった。

子供に対する教育は、能力を伸ばしつつ、社会の成員として正しく生きることを教える必要があります。西洋は一神教の宗教が広く流布していましたので、学校では専ら前者のことを考えれば良かったのです。児童中心主義(子供中心主義)はこういう社会的背景から出てきたのです。この考えをそのまま日本にあてはめることはできません

日本は自然崇拝(アニミズム)の国です。八百万の神、自然そのものが神と考えています。それは感覚的なものであって、教義は何もありません。従って、学校教育の中で、2つのことを教える必要があったのです。そして、まず世のため人のために生きることが正しく生きることであり、それを実践して身に付ければ、知識は自ずとつき能力もその過程で伸ばすものと考えたのです。

その辺りについて、「改正教育基本法」(2006年)はその第二条の中で「二、……個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし」とし、「三、……主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与」と、「教育の目標」として2つのことが規定されています。

最後は教師について。教師と子供の関係については、「濃(こま)やかだった」(『代表的日本人』113ページ)と言っています。さらに、「教師を、あの近づきがたい名称である教授と呼ぶことはなかった。先に生まれたことを意味する『センセイ』と呼んだ。……センセイには最高の尊敬がはらわれていた。それは、両親や藩主に対する尊敬と変わりなかった」(同 114ページ)とあります。確かに、登校、登城、同じ扱いだったということは、その熟語が証明しています。

かつての時代の教師のレベルに、一人ひとりが努力して近づかなければいけないのと同時に、国には教師養成のシステムの再構築に緊急に取りかかって欲しいと思っています

読んで頂きありがとうございました




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