ようこそ日本の危機へ!このブログでは主に最新のニュース、政治、教育問題を取り上げております。

これからの学校教育のあり方(6)|「アメリカ教育使節団報告書」は現在でも有効な手引書

(この文書は3/22日に書きました)

今回の記事は
・今から約75年前に書かれた「アメリカ教育使節団報告書」が現在でも有効な手引書であること
・現在のデータ・サイエンス時代においては文系の学生にとっても数学が重要である(既に早稲田大学政治経済学部では数学が必須化されている)

ということについて書いています。

先日、紹介したアメリカ教育使節団報告書なんだけどね、実はあれからまた、読み直してみたんです。

 

女性
あら、随分ご執心なんですね

以前の記事はこちらをどうぞ

戦後の日本の教育改革は、この報告書の方針に沿って行われようとしたので、言わばバイブルのようなものなんです

 

女性
ただ、あの中で何回も言われていた文部省の解体、教科書検定については、全く手つかずに終わりましたよね

 

その辺りのいきさつを誰か知っていれば教えて欲しいのですが、多分、文部省が引き延ばしを図ったと思っています。

 

女性
GHQに対して、そんなことが許されたのですか?

 

GHQには、書かれた内容を文部省が責任をもって推進します、と言っておいて時間稼ぎをしているうちに、大陸や半島で有事があり、占領政策が180度転換するなど、それどころではなくなったのではないかと思います。

 

女性
その辺りで、あいまいになったと……。

 

多分、そんなところかなと思っています。それよりも、私が問題意識をもっているのは、27名の使節団が、わずか1か月位の日本滞在で、現代でも通用するような内容のものを何故作成することが出来たのか、ということです。どう思いますか?

 

女性
使命感とか、熱意とか、問題意識とか、そういうことではないでしょうか。

 

なるほどね。私は、いろいろな角度から見るように、多彩な人材を揃えたのではないかと思っています。

 

女性
あと、日本側の協力はなかったのですか?

 

もちろん、それはありました。日本は1946年に教育刷新委員会を発足させ、使節団に協力する意向を、時の田中耕太郎文部大臣が表明しています。

 

女性
ただ、結果的には、言って終わりになってしまっていますよね。

 

文科省のあり方や教科書など、根本的なことは何も実行されていないので、改めて問題にしようということなのです

 




 

 文科省という行政組織による画一化が進んでいる現在、「アメリカ教育使節団報告書」に戻ろう

「アメリカ教育使節団報告書」(以下「報告書」とする)は、今からおよそ75年前に書かれました。現代の変化が激しい時代においても、有効な手引書として読まれるべきではないでしょうか。「報告書」はアメリカの教育者グループが、日本から軍国主義教育を除去し、「自由主義」「民主主義」に基づく教育が行われることを切に願って、使命感に燃えてこの「報告書」をまとめたのだと思います。

「報告書」の概要は、インターネットで検索すれば分かります。文庫本として今から40年位前に出版されています。「アマゾン」の古本市場で安く簡単に手に入れることができます。当時は軍国主義による画一化が進み、そして現在は文科省という行政組織による画一化が進んでいます。


そのため、文部省(文科省)筋から中教審、首相直属組織として臨教審、内閣官房に教育再生実行会議など、さまざまなものが設置され答申が出てきましたが、大体ピントが外れていたのは、そのためです。今回の大学入試の記述式もそうですし、古いところでは「ゆとり教育」もしかりです。

時代が経っても、教育行政が相変わらず硬直化しているため、提言は有効だと思います――「教育制度が、狭いグループから人材を登用する官僚制度、実績による昇進の機会を制限し、調査や研究に機会をほとんど与えず、批判を受け入れることを拒む排他的な官僚制度に支配されるとき、それは自動的に自分自身から進歩の手段を奪うことになる」(『アメリカ教育使節団報告書』講談社学術文庫.1979年/29ページ)とありますが、日本の科挙と言われている国家公務員上級試験というペーパーテストに合格した中から、本人の希望と点数によってどの省庁に行くかが決まります。教育行政官であっても、教員免許をもっている、もっていないは関係ありません。そして、合格した試験によってスタートラインが違います。現場の意見や批判に耳を傾けることはありません。

 時代に見合った教育課程の創設は各学校レベルで追究すべきこと

文科省の方針は当てにならない、かといって中央集権的な教育体制は相変わらずしばらくは続く。であるならば、各学校がその学校の生徒の実態や社会の動向に合わせて、独自にカリキュラムを考えるという途(みち)しかないと思います。

教育を受けることが権利として憲法に規定されています。その権利が最優先されますので、国といえども下位法の制定によって権利を否定することはできません。従って、各学校で生徒や親に対して、あらかじめ1.目的 2.教育課程の内容 3.使う教材などについて説明をし、承諾を得ていれば法的にも権利論的にも何ら問題はありません

教科書は検定教科書ありきという発想を文科省がいまだにしています。「報告書」は次のように言っています。

「日本の教育に用いられる教科書は、実質上文部省の独占となっている。初等学校用教科書については、文部省がこれを作成、規定し、中等学校用教科書については、これを作成させ、検定を受けさせている。……教師は、教科書の作成にあたっても選択にあたっても、充分にその意見を徴されていない。……カリキュラムに関する諸原理が、健全で正当なものであるとすれば、さらにそこから、教科書の作成および発行は自由な競争にまかせるべきである」(「報告書」36ページ)

別に突飛な教育課程を提起しようという訳ではありません。今の文科省が言う「標準」的な高校の教育課程では、現実社会に対応できていないので、そこを部分的に修正したいという提案です。

何が問題なのか。まず、文科系、理科系という分け方の問題です。これは工業社会の時代のものです。生徒は数学が苦手、得意という変な基準で進路を決めたりすることがありますが、人間相手の仕事を考えている人は文科系、機械や自然相手の仕事を考えている人は理科系というのが、基本的な判断基準です。

そういうゴール設定そのものが間違っていると指摘するのが安宅和人氏です。

彼は「この日本の教育システムが生み出す最高の人材は、テレビ番組でクイズ王になる、教育評論家や予備校講師になるぐらいしかないという残念なことになってしまう
」(『シン・ニホン』ニューズピックス.2020年/151ページ)と述べておられます。

これからはデータ・サイエンスの時代だということです。それは2019年の企業価値ランキングを見れば明らかです。1位から順番に並べると、マイクロソフト、アマゾン、アップル、グーグル、フェイスブックです。

この中に、製造業はありません。ちなみに、日本のトップ企業のトヨタは47位です
文科系、理科系の中間的な人材が必要です。従来の、文科系、理科系という分け方によって選択した学部では、これからの主流となる分野の人材を供給できなくなる可能性が出てきました。データ・サイエンスに対応できる学部が既存の学部では、殆どないからです。

今日の『産経新聞』に主要国の賃金推移のグラフが載っています。1995年を100として、日本、韓国、アメリカ、ユーロ圏で比較をしています。韓国260、アメリカ205、ユーロ圏160、日本95です賃金が上がらないのは、労働生産性が上がっていないからです。労働生産性が上がっていないのは、人材が育っていないからです。どうして育っていないかというと、時代に即応した教育課程で教育していないからです。



 どのようなことを考えて教育課程を編成すれば良いか

この問題で大学として素早い対応をしたのが、早稲田大学です。政経学部で数学の必須化を決め、他の社会科学部、商学部、教育学部など他の文系学部も数学必須化の是非について検討を進めているとのことです

データ・サイエンスの時代なので、思考スキルの中に数学的素養がどうしても必要ということです。数学を入試科目にすれば、応募者は減るだろう。ただ、そんなことは問題ではないということです。卒業して社会に送り出した学生が時代に合った力をつけていなければ、路頭に迷ってしまう。そのことを何よりも第一に考えての措置ということだと思います。

そして、先ほどの安宅氏ですが、「理数素養のある学生の割合が少なすぎる」(前掲書/105ページ)上に、文科系進学者の多くが、高校2年生以降理数系の科目を勉強していないことを嘆いています。高校によっては、私立文科系を選択すると、中学生より1時間早く5時間目で終わって下校という状態ですが、今は大学は全入状態(志望者の9割がどこかの大学に入れる時代)なので入学はするものの、結局は持つべき武器をもたずに戦場に出されている状態になると安宅氏は言います。就活して企業に就職しても、AIに追いやられるような職種にしか就けないだろうと思われます

情報科学は理数的な素養をもつことが大事なので、統計数理、線形代数、微積分、数列といった基礎科目を学ぶ必要があり、そうすると遡って高校時代に文系といえども数Ⅲのさわりまでは学ぶ必要があるということです。そして、そういった教育課程を学校の判断で組むことが出来なければいけません。

これからの学校は公立、私立を問わず、文科省の学習指導要領を見てカリキユラムを組んで終わりではなく、社会の動向を見据えて、独自の判断で教育課程を編成し、保護者、生徒に提示し、了解をとった上で教育活動をする必要があると思います

私の出身校は、文系でも数学Ⅲまで受講させていました。そのために、中3の3学期から高校数Ⅰを受講するようにしていました。全員に対してそのようにするかはともかくとして、時代に合わせて様々な工夫が現場に求められると思います。特に、私学はそういったものを一つの「売り」にすればよいと思います。

令和というのは、そういう時代だと言えるでしょう。

読んで頂きありがとうございました

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村
ランキングに参加しているためクリックして頂けると励みになりますm(_ _)m




最新情報をチェックしよう!