「ロシアのウクライナへの侵攻があってから100日経ちましたね」
「当初は長くて2か月だろうという見方が大勢を占めていましたけどね」
「そうですよね、すぐに停戦交渉が始まりましたものね。あれで何とかまとまるのかなと思っていました」
「こうなって来ると、終わりが見えなくなってきましたね。世界はこの戦争に振り回される年になりそうです」
「今まで戦後多くの戦争や地域紛争があったのに、どうして今回の戦争が世界の注目をこんなに集めているのですか」
「デジタル発信の力が大きいと思います。今日のニュースでも流れていましたが、戦場で起きていることが、そのまま生の映像で世界に配信されている。今まで、なかったと思います」
「そういうこともあって日々のニュースとして報道されるのですね」
「天安門事件の時、戦車に立ちはだかる男性の映像だけで世界の世論は動きました。今回のウクライナからの映像は、それよりも生々しく、量的にもかなりのものが配信されています」
「この間ほぼトップニュース扱いでしたからね」
「短期間で終わるのではないかという、マミコミ側の見立てもあったのではないかと思いますけど……」
「ウクライナ側の奮闘が評価されているようですね」
「欧米側からの武器供与もありましたが、何と言ってもゼレンスキー大統領のリーダーシップが大きいと思います」
「本当に喜劇俳優だったのかしらと思うほど、大統領としての貫禄が増していると思います」
「仕事が人間を作ると言いますからね」
「しかし、絶妙なタイミングで大統領になったものですね」
「神のなせる業だと思っています。ここからが本論です ↓」
今から約2500年前にペルシア戦争があった
『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、紀元前492年から紀元前449年の、3度にわたるペルシア帝国の遠征軍とギリシアの諸都市との連合軍との戦いです。ペルシア戦争というのは、あくまでもギリシア側から見たネーミングなので、2国間の戦いなので、ギリシア・ペルシア戦争とも言うようです。
当時のペルシアは、アケメネス朝ペルシア(以下、ペルシア)であり、大帝国です。対するギリシアは都市国家なので、普通に考えれば、ペルシアの圧勝です。ところが、そうはならなかったのです。何故なのか、今のロシア、ウクライナの戦いに共通するものがあるかもしれません。その辺りの歴史的事情を紐解いてみたいと思います。
(「そういち総研」)
巨大な力をもったペルシア帝国
ペルシア戦争の直接の原因は、ペルシアの影響力拡大に対するイオニア地方の都市国家群の反発から起こっています。イオニア地方というのは、ギリシアの植民地です。この地域にペルシアが狙いを定めます。
当時のペルシアは絶頂期にありました。小アジアのリディア王国を併合、マケドニア王国を支配下に置いたのです。さらに、紀元前518年にはエーゲ海東部の島嶼をその支配下に置いています。ただ、ペルシアはここからも慎重に事を運びます。政治の力点を経済活動に置き換え、「王の道」を整備して、交易を積極的に推進します。
軍事侵攻をするためには、道路が整備されていないと上手くいきません。それを相手方に怪しまれないように行うためには、交易という理由が一番最適なのです。
「一帯一路」というスローガンを掲げて世界制覇に乗り出した中国。いきなり軍隊ではなく、まず経済関係で相手に近づくというやり方。実は、それは古代の時代から変わってはいないのです。
当時のペルシアは、西アジアからインドに至るまでの広大な帝国を打ち立てていました。そんなに広い領土であれば、そこで満足すれば良いのにというのは、農耕民族の発想。狩猟民族のDNAには、領土はあれば求めるものという感覚なのでしょう。広大な領土を持つロシアが、さらに隣国の領土を欲しがるという図式は、古代のペルシアに重なるところがあります。
(「TANTANの雑学と哲学の小部屋」)
民がまとまれば、一つの見えない大きな力が現れる
大帝国のペルシアがギリシア本土に攻めてきます。ペルシアの大軍をアテネはマラトンの原野で迎え撃ち、ここでペルシア軍を撃退します。これが有名なマラトンの戦いで、アテネ勝利を伝えるために一人の連絡兵がそのことをアテネまで走り、それを伝えると死んでしまいます。その逸話が元になって、オリンピックのマラソン競技が始まったと言われています。
閑話休題。なぜ、都市国家のアテネが大帝国のペルシア軍に勝てたのでしょうか。ヘロドトスの著した『歴史』によれば、ペルシア軍は多国籍軍であり、大義名分がなく、意志統一も充分されていなかったようです。それに対して、アテネの側はポリスの自由と民主主義を守るという決意に溢れていたようです。もちろんペルシア戦争は長きにわたる戦いで、複雑な局面もあり、簡単に一言で総括するのは危険なのかもしれませんが、圧倒的に不利な状況にも関わらず、ギリシア側が勝利したのは歴史的事実です。
勝因は、やはり一つの目的のために国民がまとまったということでしょう。個々バラバラなものが一つにまとまった時、計り知れない力を発揮することがあるということです。
40数キロをアテネ勝利の知らせのためだけにひたすら走った名もなき連絡兵がいたことで、そのことが分かります。苦しければ、途中休めば良いのです。歩いても良いし、早歩きでも良かったのです。誰も走れと命令した訳でもありません。
にも関わらず、一人の連絡兵を休まないで走らせた目に見えない力があったのです。多分、それがアテネに勝利をもたらしたのでしょう。戦いというのは、そういった力を味方につけるかどうかに掛かっているのです。
ロシアとウクライナはどうなのか。言わなくても、分かるでしょ。
ちなみに、ペルシアはこの後衰弱し、150年後にアレクサンダー大王によって滅亡させられます。
(「陸上競技場」)
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