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ウクライナの苦難の歴史 (1) ーー コサックとの出会いがウクライナに自由の風をもたらす / ロシアと袂を分かつ瞬間

女性

「前回のブロクでペルシア戦争の話を初めて聞きました。大きな帝国が負けたことが、そんな昔の時代にあったんだなと驚きました」

「人類は多くの歴史を刻んできていますが、日本人も含めて、その歴史から殆ど学んでいない気がします」

女性

「歴史は「暗記もの」と皆さん思っているんじゃあないでしょうか。かく言う私もそうなんですけどね」

「確かに知識は必要ですが、一番大事なのは視点だと思います」

女性

「視点ですか? ペルシア戦争を例にとると、どういう視点が必要なのですか?」

「視点と言うのは、例えて言えば玉手箱のカギのようなものです。そして、視点はいろいろあって良いのです。前回のブログでは、なぜ小国のギリシアが大帝国に勝ったのかという問題意識、それが視点でした。」

女性

「そしたら、ペルシアの側の弱点が分かったということですね」

「そこからさらに、何故傭兵(ようへい)を多く雇ったのかとか、そもそもギリシアを何故攻めたのかという新たな視点を設けて調べると、また違ったことが見えてくるかもしれません」

女性

「せっかく、小が大を倒した話を聞いたので、その視点を使って今のウクライナ情勢を見ていきましょうか」

「そうですね、現実の社会の動きを題材にしながら、どういう歴史的背景があり、我々がそこから学ぶことは何なのかという、その2つの視点で見ていくことにしましょうか」

女性

「ウクライナとロシアの関係は、今まではどうだったのでしょうか。ウクライナはソ連邦の中に入っていましたよね。ロシアとは兄弟のようなもの、言語もよく似ていると言っていますので、どうして急に仲が悪くなってしまったのですか?」

「今さりげなく言われた問題を調べるのは、結構大変なことです。ただ、素朴な疑問は大切なので、少し世界の歴史を深堀りして調べてみましょうか」

女性

「そのあたりの歴史を紐敷くと、ウクライナとロシアの実際の関係が見えてくるかもしれませんものね」

「ここからが本論です ↓」

 ロシアとウクライナーー苦難を共にした時代もあった

『詳説世界史』(山川出版社)を読むと、ロシアとウクライナは同じ系統の民族として書かれています。5世紀の頃から約200年にわたるゲルマン人の大移動があり、その一派がノルマン人ですが、その流れを汲むスウェーデン系ノルマン人がドニエプル川流域のスラブ人地域に進出します。このドニエプル川は現在のウクライナの中心を流れている川で、首都キーフを通って黒海に注いでいます。

およそ9世紀から13世紀にかけて現在のウクライナの北部からベラルーシにかけてキエフ公国が建設されますが、もともとドニエプル川中流域に住んでいた先住民族の東スラブ人と同化します。そして、これがロシアの起源だと山川の教科書は説明しています。

ロシア(Russia)の国名のいわれはルーシ(Rus)にあり、ノルマン人の中にルーシ族が存在するので、そういった流れの裏付けになると思います。その後にモスクワ公国が誕生します。モスクワ公国の君主もキエフ公国の君主も「クシャージ」を名乗っています。

両公国とも13世紀になると巨大化したモンゴル帝国に滅ぼされてしまいます。所謂「タタールの軛(くびき)」の時代です。軛と言うのは、馬車や牛車を引かせる際に、馬や牛が勝手に走らないようにするため牛馬の首の後ろに横から長い棒で彼らを拘束する道具のことです(下の写真を参考のこと)。そこから転じて、自由を奪うものという意味です。つまりモンゴル人による支配と抑圧の時代をウクライナ人もロシア人もここで経験します

(「令和の未来カエルのブログーはてなフログ」)

 ウクライナ人の原点に自由への憧れがあった

そして、この時期にウクライナから南ロシアにかけてコサックという騎馬集団が現れます。この頃からウクライナ人とロシア人が別々の「道」を歩み始めたのではないかと見ています。

コサックは元々はトルコの騎馬集団で「自由な人」という意味です。コサックはモンゴルの支配を嫌ったトルコやアジア人の人たちが主体となった集団ですが、そこにウクライナ人たちが参加するようになり、やがて先に紹介したドニエプル川流域に多くのコサック集団が形成されるようになります。

ウクライナ人は、この時代を原点と考えていたフシがあります。ウクライナ国歌の歌詞に「我らは自由のために魂と身を捧げ、兄弟たちよ、我らがコサックの氏族であることを示そう」という下りがあるからです

(「アマゾン」)

  ウクライナとロシアーー別々の道を歩み始める

モンゴル帝国は最盛期には、東は中国、西は現在のポーランドからトルコにかけての広範囲な面積を支配します。5代のフビライの時は国名を元と称し、中国全土を支配、チベットや高麗を属国とし、その勢いで日本に攻めてきた(元寇)のです。そのモンゴル帝国も衰退の時を迎え、元は明の軍隊に都を追われ、モンゴル高原に退くことになります。

そして、そのタイミングで一早く勢力を回復したのがモスクワ公国です。そして、17世紀初めにロシアはロマノフ朝が成立します。いわゆるロシア帝国の誕生です。このロマノフ朝のピョートル一世はウクライナ・コサックと大規模な戦争をして屈服させ、17世紀の末にはコサックもウクライナもロシア帝国の支配下に入っていきます。ピョートル一世は支配した後、ウクライナ地方を小ロシアという名称を使うようにし、ウクライナ語を禁止して、ロシア化の政策を進めます。この政策は次のエカチェリーナ二世に受け継がれていきます。

ウクライナ地方は肥沃な穀倉地帯ですが、ロシアはウクライナ人を農奴として貶め、搾取していきます。そして、その言動もロシアによって監視され、不穏な分子はシベリアへの流刑とされたのです。

ここから気持ちの上で完全に別の道を歩むことになります。ウクライナ人たちは、ロシア人と区別するため、ルーシ(Rus)ではなくウクライナというようになります。ロシアはウクライナは国ではなく、辺境という意味だと言い張ります。

しかし、1917年にロシア革命が勃発し、ソビエト政権が誕生すると、ウクライナは独立をし、ウクライナ人民共和国が誕生します

紙数が尽きました。この後は、次のブログで書きたいと思いますが、ここでハッピーエンドにはならなかったのです。彼らの苦難の旅は、さらに続くことになります。

参考論文上山卓栄「ウクライナ人――民族差別と迫害の過酷な歴史」(日本学協会『日本』令和4年6月号 所収)

(「HIS」)

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