「かつては天才力士と言われた、逸ノ城が優勝しましたね」
「あっという間に幕内に上がって、その後、腰痛で苦労したみたいですね。彼はモンゴル出身で、照ノ富士と同じ飛行機に乗って日本に来たということです」
「脊椎カリエスで苦しんだみたいですけどね」
「前回の話に合わせると、彼もギフテッドだと思いますよ」
「そうなんですか! 何かギフテッドのイメージと違うような……」
「210キロの身体自体がギフテッドでしょ。普通の人は、そこまで体重を増やせませんからね」
「背がある程度高く、内臓が丈夫でないと、そういう身体にはならないですものね。そういう人が相撲に出会ったことが大事なのですね」
「ただ、スポーツ、芸能、文化のギフテッドは比較的探しやすいのです。体格や本人の志向がはっきり出ますからね」
「スポーツの種目によって、求められる運動能力も違いますからね」
「大変なのは、学問関係です。学問分野も大きく理系、文系と分かれますが、さらに細分化されています」
「単純に頭の回転が良い、賢い子を見出しただけではダメなんですか。今日の「日経」(7.26日付)の記事によると、いよいよ文科省がギフテッド教育に乗り出すみたいですね」
「私もその記事を読みましたが、文科省がやると失敗すると思っています」
「いきなり、きつい一言。理由は何ですか」
「ギフテッド教育を軌道に乗せるために最初に行うことは「伯楽」の養成です。いわゆる、その子の才能を見極めることが出来る人材をいかに養成するか、ここから始めないと単純に勉強が出来る子供たち、偏差値の高い子どもたちを集めただけで終わってしまいます」
「そういうことではないんですよね。ここからが本論です ↓」
「伯楽」養成プログラムを開発する必要がある
「日経」の記事を読みましたが、入り口のところで方向違いをしています。2人の会話で紹介したように、大事なのはとにかく「伯楽」を養成することです。「千里の馬は数あれど、伯楽世になし」という先人の言葉があるように、ギフテッドかどうかを判定できる人材の育成を時間をかけて行うのが最初にやるべきことです。
その辺りの理由を理解してもらうために、プロ野球界を例にとって説明します。プロ野球の世界はプロ野球機構の力によって、才能がある者の発掘、獲得、育成がシステムとして機能していると思っています。そのシステムの中で、大谷選手は大リーガーで大活躍をするまでの選手となりました。
野球の才能がある若者を見出し、各球団の育成プログラムに従って一流のプロの選手として育てられていますが、最初のとっかかりはプロのスカウト陣の「目」です。甲子園に出る出ないではなく、才能があれば例え1回戦で敗退したチームの中からも見つけ出す。結果は出ていなくても、やがては結果を出すだろうという目利きがスカウトに求められています。野球の「伯楽」の真骨頂です。
スカウトの仕事は目立ちませんが、ここが一番重要なのです。文科省の視点で欠落しているのは、実はここです。文科省の発想は、才能がある者は、自然にプロ野球に集まるだろうというものです。
(「中国古典 名言に学ぶナオンの古典の散歩道」)
育成プログラムを持っている団体とそうでない団体
スポーツ分野の話ついでに、才能がある者の発掘から育成までを意識的に行っている組織とそのような考えはないのではないかと思われる組織があるということを補足的に言っておきます。
今までの話を聞いた人の中には、どの競技の組織も選手育成に力を入れているだろうと思われるかもしれませんが、発掘、育成について殆んど関心をもっていないのではないかと思われるのが日本テニス協会です。
全日本のイベントを実施していますので、才能があればここまで辿り着き、その後本人の意欲があれば援助するというスタンスだと思います。少なくとも、発掘はもちろんのこと、育成も積極的に行っていません。だから、テニスで世界に羽ばたくためには、早くアメリカのスクールアカデミーに行く必要があります。そして、実際に日本のテニス協会が発掘、育成をした選手というのは聞いたことがありません。
国内にいると、埋もれることになります。
才能を発見できるシステムを開発する必要あり
話を元に戻します。ギフテッドというのは、神からもらった才能という意味ですが、その才能を誰が見出すのか、ということです。
本人が分かれば一番良いのですが、本人にも分からないのです。そのため、今までの時代は、親、特に身近に接する母親が最初の発見者であることが殆んどです。「この子は普通ではない」――これが最初の気付きでしょう。普通の人では見逃してしまうその子のある場面における対応や仕草、言葉の使い方などから何かを感じたのでしょう。
ただ、そうなると親が気が付かない場合は、どうなるかということです。才能がそのまま埋もれることになります。仮に親が気が付かない場合でも、システムとして発見でき、育成できるようなことを考える必要があるのです。
(「みんなの教育技術」)
何をギフテッドとして認めるのか
才能のあるなしの判断と並んで難しいのは、現代社会において必要な才能とそうではない才能があるということです。
例えば、かつての時代は記憶力は大変重宝する能力だったでしょう。言い伝えによると、『古事記』編纂にあたって活躍したのが稗田阿礼という人物です。聞いた話をすべて記憶できたそうです。ただ、今は単に記憶力だけではギフテッドとして重宝するような時代ではありません。
何かを機械的に覚えることではなく、仮に論理的な思考力がギフテッドの第一条件と言われても、それを誰がどのように判断し、その力がどの学問分野にどう影響するのかと問われると困ってしまいます。
簡単に言えば、天才は天才が分かります。鈍才がいくら集まっても、天才を見出すシステムを作ることは出来ません。文科省はまず自分たちには荷が重くて出来ないことを深く自覚してもらって、ギフテッドと言われる人たちの意見を聞いて、まず母体を固める、つまり「伯楽」養成から始めることです。
何事も「急がば回れ」です。それを行わないでギフテッドを探し始めると、地方大会の決勝戦や甲子園に足を運んで、結果が出た選手を集めることになります。それでは、ギフテッドを確実にゲットすることができません。
(「日本経済新聞」)
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