「前回のブログで3つの難問が出てきたということを書きました。そこから、後藤新平はどうしたのか、ということです」
「3つの難問というのは、整備事業、国内世論、土匪対策ですよね。昨日の話を聞いて、私だったらどうするかなと一応考えてみました」
「考えてみてどうでしたか?」
「私には荷が重いということが分かりました」
「なんだ(ガクッ)。彼は3つの問題を個別に、つまりバラバラに考えずに、立体的というか有機的に捉えたのですね」
「立体的、有機的の意味が今一歩分からないのですが……」
「彼がまず考えたのは、銀行を作ることだったのです」
「銀行……ですか? 彼はお医者さんでしょ。どうして、そんなことを考えたのですか?」
「彼は開業医ではなく、医学の知識をもった国家公務員と考えた方が実像に近いのではないかと思います」
「なる程、当然、金融とか軍事の基本的なことは分かっているということですね」
「日本本土の不満の中身は、ムダ金を使っているということだと捉え、国内からの持ち出しを無くすにはどうすれば良いか考えたのでしょうね。そして、台湾の国内整備事業を経済活動の基盤作りと捉え、財政がプラスに転ずれば不満が解消され、抗日勢力も台湾の発展を目の当たりにすれば抵抗しなくなるだろうと考えたのです」
「経済活動をするためには、どうしても銀行が必要ということなんですね」
「そして、台湾の人たちにも協力してもらわなければいけないと考えたのです。すべての人材を日本から呼ぶのは不可能だし、良策ではないと思ったのですね」
「働く場所の提供にもなりますものね。だけど、現地の抵抗勢力の人たちを仲間に入れるのは、大変だったでしょうね」
「そちらの方は、彼は『長期戦』で臨んでいます」
「ここからが本論です ↓」
土匪(どひ)対策は「あめとムチの政策」を採用
ある程度の業績を残した者は、必ず何らかの「哲学」をもっているものです。それが問題を解決するヒントになったり、カギになったりするからです。後藤新平はこういう言葉を遺しています――「社会の習慣とか制度とかいうものは、みな相当の理由があって長い間の必要から生まれてきているものだ。その理由も弁(わきま)えずにむやみに未開国に文明国の文化と制度を実施しようとするのは、文明の逆政というものだ。そういうことをしてはいかん」(渡辺利夫『台湾を築いた明治の日本人』産経新聞出版、2020/224ページ)。
簡単にいえば、抵抗する抗日勢力は彼らなりの理由と理屈がある。彼らの目線に立って考えることが必要と言っています。そのような考えの下、後藤は児玉源太郎に「土匪(どひ)招降策」を進言します。内容を一言で言えば、懐柔策です。土匪というのは、土着の匪賊の略称で、現地に住む抗日抵抗勢力のことです。
台湾総督は初代から3代まで軍人であったこともあり、とにかく武力で鎮圧ということしか頭になかったのでしょう。それが余り上手くいかなかった、それどころか強引な作戦を行ったこともあり、そのため却って現地人から反発を招き、土匪を増やしてしまうということもあったようです。そんな失敗の経験も念頭にあったことと思います。
特に、3代目総督は乃木希典です。明治天皇の死に伴う殉死で有名な方ですが、明治維新期に多くの軍功があり、日清戦争の時も旅順要塞を1日で陥落させるなどの武功を挙げた人です。その彼が見るべき成果を余り上げることが出来ず台湾を去るということも大きな理由だったのではないでしょうか。
なぜ抵抗勢力を武力で排除できなかったのか。簡単に言えば、誰が土匪か分からないからです。普段は普通の市民、農民として暮らしていて、何かある時に結集して、役場や役人を集団で襲ってくるのです。軍人は敵だと明らかに分かっている集団との戦い方は上手いのですが、そのような戦いはしたことがなく大変な難儀を重ねたようです。
そんなことで後藤は懐柔策を進めます。「説得に応じて良民へと帰順すれば、税の免除、更生資金や道路工事などへの就業機会を提供するという政策に転じた。この策により大頭目が帰順したことを知ったあまたの中小の土匪は次々と帰順した」(渡辺利夫 前掲書/208ページ)のです。ただ、テレビドラマのようにはいかず、抵抗を続ける者たちもいたのです。その者たちには徹底的な刑罰で挑むという方針で挑み、1902年までの台湾人の犠牲者は約1万2千人だったとのことです。
台湾銀行の設立により、財政の自立と産業基盤の整備、雇用の確保を狙う
後藤が次に行ったのは台湾銀行の設立(1899年)です。本土から事業の都度多額のお金を送金するのは能率が悪すぎますし、それでは財政的にいつまで経っても自立できないと考えたのです。台湾銀行を設立して起債をして資金を調達し、それを各種事業につぎ込むことを考えます。
土地調査事業、鉄道事業、港湾整備事業、水利開発事業、林野資源開発事業、水道事業などです。債券の引受先は殆どが日本ですが、当然利払いはあります。一種の契約関係によって資金の調達がなされた訳です。これであれば内地からお金の持ち出しが多いということで文句を言われる筋合いもありません。後は、現地の事業を採算ベースに合うように軌道に乗せれば良いわけです。
こういった事業をどう見るかという話をしたいと思います。というのは、この捉え方が台湾と朝鮮では全く違うからです。台湾は植民地経営、朝鮮は併合で厳密には違うのですが、日本は同じような統治政策をとります。しかし、台湾は概ね感謝をし、朝鮮では侵略、収奪といまだに様々なことを言っています。
この違いは簡単に言えば、事業側から見るか、働く側から見るかの違いです。上記の事業には当然現地の人たちの労働力の提供があります。事業ですから当然労賃は支払われますが、それを搾取されたと捉える見方もあります。搾取、つまり本来は1万円支払われるべきなのに、5000円しかもらえなかった。5千円が搾取された、ひどいという考え方です。この考えを拡大すると、日本が半島に来て現地の人間から多くの金額の搾取をして搾り取っていったとなります。
台湾の人たちは、事業側から見てくれますので、様々なインフラ整備をして、産業基盤を作り、働く場所まで提供してくれて有難うということになります。
台湾での事業計画はかなり欲張りなものだったのですが、1911年、つまり事業を始めてわずか約10年で国庫補助金ゼロを達成します。そして、この台湾の財政的自立は日本の敗戦に伴う台湾放棄まで続くことができたのです。
(「台湾銀行」/Wikipedia)
日本の 台湾統治を台湾が評価し、日本の教科書が蔑む
児玉源太郎と後藤新平による台湾統治は、わずか8年余りの短い期間でしたが、台湾のその後の発展の基礎をつくったと言えます。この台湾統治を大絶賛した記事が『ニューヨークタイムズ』に掲載されたことは、このブログのPART1で紹介しましたが、逆にこれによってアメリカが日本という国に警戒感をもち始めるきっかけとなったのは、皮肉なことでした。
そして肝心なことは、現地の教科書にどのように書かれているかということです。そのことが『台湾を築いた明治の日本人』の中に紹介されています――「日本統治時代の項目では(1)人口の激増(2)纏足(てんそく)、弁髪追放(3)時間厳守観念の養成(4)遵法精神の確立(5)衛生管理の確立」とあり概ね好意的です。特に(4)については「学校や社会教育を通じて近代的な法治観念と知識を注入し、秩序と法律を尊重することを学ばせ、それに加えて司法が公正と正義を維持することにより、社会大衆の信頼を獲得した。この影響によって民衆は分に安んじ、規律を守るなどの習慣を養い、遵法精神を確立した」(同上、250ページ)
一方、日本の高校日本史教科書(山川出版社)は「台湾の支配は、現地の地主・商人などの富裕層を懐柔しながら進められたが、その一方で貧農などの民衆は日本の支配への抵抗を続け、たびたび反日武装蜂起をおこした。日本はこれに対して徹底した弾圧でのぞみ、その支配は1945年まで続いた」とあります。他の出版社の教科書も同じような記述になっています。現地の教科書が好意的に書き、日本の教科書が悪意丸出しで書く。そして、台湾発展のために尽力した日本人のことは一切書かない。何かがおかしいと思います。
教科書は市販されないため国民の目が届きにくいのですが、それを良いことに自虐的な記述が満ちています。国会でも取り上げて欲しいと思っています。
読んでいただき、ありがとうございました。
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