(この記事は2/19日に書いたものです)
https://www.sankei.com/life/news/200216/lif2002160039-n1.html
どれどれ、「国語の問題を作成する分科会の複数の委員が、……記述式に関する例題集を民間の出版社から発行し…」(同上)とあるね。
これは、まずいでしょう。
問題漏洩ではないけれど、共通テストの記述式の傾向と対策の書籍の発行は、道義的な責任が問われる問題ですね。
」
ところで、あなたはセンター試験世代ですよね。
何か大きな不都合が発生しない限り、入試制度というものをむやみに変更するものではありません。現場の授業や受験生に大きな影響を及ぼすからです。今回のように、理念の変更に伴っての実施内容の変更は原則的に行うべきではありません。
なぜなら、その掲げた理念が入試を通して受験生に浸透するかどうか分からないからです。そして、入試選抜のやり方も、実際に多くの答案を処理するためにマークシートを導入するなど、便宜的に行っているものなので、そこに正確性や理想を求めすぎても仕方がないと思います。肝心なのは、入学後の教育によって、どういう力をつけさせるかの中身が重要なので、入試についてはある程度の割り切りが必要だと思います。
今回の記述式導入のプランは、政府の教育再生実行会議の第4次提言「高等学校教育と大学教育の接続・大学入学者選抜の在り方について」(2013年10月)が発端となっています。その中で、能力、意欲、適性を多面的・総合的に評価しうる大学入学者選抜制度への転換を謳っています。それが今回、具体的方針として降りてきたものでした。
教育再生実行会議は2013年1月の閣議決定を経て組織された政策会議です。構成は、内閣総理大臣、内閣官房長官及び文部科学大臣兼 教育再生担当大臣並びに有識者というそうそうたるメンバーです。この会議の趣旨は「21世紀の日本にふさわしい教育体制を構築し、教育の再生を実行に移していくため」としています。
生意気なようですが、会議の趣旨は良いと思います。有識者のメンバー22人の内訳は知事、教育長、大学教授、会社相談役など、各界を代表する方たちを集めています。完璧な陣を敷いて、優秀な人材を輩出するための教育の在り方について、叡智を結集しようとする、その気持ちと意気込みは素晴らしいと思います。ここで決まったことに対して、忖度が当然のように働きますので、すぐに政策として実行されていきます。
しかし、ここに大きな落とし穴と、錯覚が生まれることになります。まず、組織的に問題なのは、教育現場を直接知っている人が誰もいないことです。現役の校長先生が1人いますが、数的に足りません。授業をしていないので、どうしても感覚的にずれてしまうことがあると思います。私の経験で恐縮ですが、学内の会議で校長と意見交換をする時に、たまに生徒の感覚とズレていると思うことがあります。言葉ではなかなか説明しづらいのですが、例えて言えば、長い間練習を休んだ後のテニスボールを打った時の感覚とでも言いましょうか。
ボールを触ったことや試合を観戦したことはあるのですが、ボールを打ったこともない人たちと、かなり昔にボールを打った人が集まって、現代テニスの戦略を論議しても、地に足がついた議論にならないだろうということです。
そして、何事を論議するにしても、その歴史をある程度知っていないと正確な判断はできません。歴史の流れが、一つの座標軸になるからです。先にも書きましたように、今のセンター試験になるまでの流れがあります。その歴史を踏まえた上で議論する必要があるのですが、この会議の結成が2013年1月で、その10か月後には、提言が出ています。いくら何でも、早過ぎます。この早さだと、今までの経緯(歴史)が会議のメンバー全員に共有されていないと思われます。
このパターンは、『世界倒産図鑑』が言うところの「タカタ」のケースに当てはまると思います。著者の類別によると、「機能不全型」で「経営と現場の距離が遠過ぎて、組織として機能していない」というものです。
「タカタ」は1933年創業の自動車部品製造メーカーです。エアバッグの生産で一躍有名となった企業ですが、製品に対して全米からリコールもあり、2017年に倒産しました。著者の荒木博行氏は次のように分析しています――「現場と経営の間でどれだけ鮮度が高く正確な情報の交換が行われているか、ということ。しかし、タカタはその観点で『機能不全』の状態だったと言わざるを得ません。…そんな機能不全の中で大胆な意思決定をしてしまったことが大惨事につながってしまったのでしょう」(同 269ページ)。
現場主義を貫いたのがホンダの創業者本田宗一郎氏です。現場からの生の情報を先入観を入れないで素直に受け取ることの重要性を説いています。現場は現実そのものです。それ抜きで教育や入試のことを考えても、生徒の理想像や教育の理想論を頭に思い浮かべながら、制度を考えることになります。そして、結局は地に足がついていない結論に達してしまうだけです
日本人がよくやる過ちは、この現場主義を忘れることです。平成の天皇陛下は率先垂範で、この現場主義を日本人に身をもって説かれていたと思っています。被災地に行って、被災された住民に寄り添うように、住民の目線に合わせて膝を突き合わせて話をされていました。日本や世界の政治家、指導者を思い浮かべて欲しいのですが、現場であそこまで出来る方はいないと思います。地位とプライドが邪魔をするからです。なかなか出来ることではありません。
現場主義を忘れたトップをもつ組織は、必ず衰退します。文科省は現場主義を忘れています。再生会議には、文科省が関わっていると思われますが、そうそうたるメンバーを集めても上手くいかないのは、そこに原因があるからです。
例えて言えば、目の前のボールを自己流のフォームで打ちながら、頭の中では、プロの選手の理想的なフォームを思い描いているようなものです。
読んで頂きありがとうございました。