中学公民、高校で使用する現代社会、政治経済の教科書には、必ず日本国憲法の三大原理についての記述がある。小学校の社会科教科書も同じである。そんなこともあり、日本国憲法の三大原理ということで、教員から「テストに出すぞ」と言われて、小学校や中学校で暗記させられた人もいるのではないだろうか。
必ず、判で押したような記述がある――「日本国憲法は、……国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を基本原理とする、まったく新しい憲法である」(『高校政治・経済』実教出版)。多少の表現の違いはあるが、どの教科書も同じようなものである。
多分一番言いたいことは「平和主義」と「まったく新しい」ということであろう。日本国憲法と大日本帝国憲法(以下「明治憲法」)は、180度違うということを言いたいがために、その理屈として3つの基本原理というものを持ち出していると思われる。(両憲法は本質的な部分では何も変わっていないことを(1)で述べた)。
基本原理と言うからには、そのことが前文に明記されてなければならないが、そのような記述はない。そのような中で何を憲法の基本原理と考えればよいかは、前文の内容と憲法の章立てを見て総合的に判断する必要がある。
前文の文章を読むと、真っ先に出てくるのが国会、次に主権、そして平和という順番である。そして章立てを見ると、第一章「天皇」、第二章「戦争の放棄」、第三章「国民の権利義務」となっている。国民主権については、第一章、第一条の中に規定があるが、傍論扱いである。憲法や法律は重要な順番に並べるという暗黙のルールがあるので、これらを素直にまとめるならば、象徴天皇制、国会中心主義、戦争の放棄、国民主権、基本的人権の尊重の五大原理ということになるだろう。
例えば会社を例にとって考えてみることにする。一番関心が向くのは会長を置くのか置かないのか、置くとすれば権限を与えるのか与えないのか、(社長は当然いるので)、社内の合意をどのように形成するのか、社員一人ひとりが人間として大切に扱われているかといったところであろう。他の会社と仲良く取引をしますとか、会社が岐路に立った時は全社員の意見を聞きますといったことは確かに大切だが後回しの事柄であろう。何を何に例えているかお分かりと思うが、これらの考えを国家にも当てはめることができる。そうすると、象徴天皇制、国会中心主義、基本的人権の尊重が三大原理となろう。
そうすると、2つの不都合が生じると考えたのであろう。1つは、憲法学会の主流をなす東大憲法学の重鎮であった宮沢俊義氏(元東京大学名誉教授/1923~1976)の学説と異なるという不都合。宮沢俊義氏の『憲法(改訂版)』(有斐閣/1986年)が手元にある。彼の死後10年経ってから出された改訂版である。大学や法科大学院で基本書として使われていたのであろうか、17刷とある。バイブル化していたのかもしれない。
その書によると、基本原理は「(1)個人の尊厳、(2)国民主権、(3)社会国家、および(4)平和国家をあげることができる」(68ページ)としている。社会国家というのが分かりにくいが、「国民の一人一人に対して、人間たるに値する生活をさせることが、国家の使命であり、責任であると考える。こういう使命と責任を自覚する国家を社会国家という」(72ページ)とのことであるが、現代は福祉国家なので、ある意味当然ということで、これが無くなり平和国家、平和主義となったのであろうが、そうなると統治機構についての原則が何もないことになってしまい片面的な感が否めない。
ところで、もう1つの不都合は、平和主義がなくなることになるので、それを掲げて最終的に自衛隊の解散、武装解除から体制転覆、共産主義化のシナリオを描いている者たちにとっての不都合である。つまり、平和主義と体制転覆を意識的に繋げようとしている勢力にとっての不都合である。
「平和」と言えば、平和が来るほど現実は簡単ではない。戦後日本が戦争に巻き込まれなかったのは、世界最強のアメリカ軍が 日本に駐留していたからに過ぎない。どこも手出しなど出来る訳がないことは、少し考えれば分かりそうなもの。
そもそも、世界の189の成文憲法の中で、平和条項を有している国家は161か国あると、西修氏(「東大憲法学の『呪縛』を解こう」/『産経新聞』2019.11.4日付)は言う。「世界に誇れる平和憲法」というスローガンを掲げて選挙を戦う政党があるが、日本だけではないということである。従って、三大原理に入れる必要もないだろう。