昨日、このブログで話題にした『反日種族主義』の日本語版は、現在36万部に達したとのこと。そんなこともあり、今週号の『週刊文春』(12月19日号)に、同書に対する学者や政治家、識者のコメントが4ページにわたって掲載されている。
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「ありがたい歴史書」(川渕三郎氏)、「韓国人には珍しい自己批判の本」(鄭大均氏)、「敵意がむき出し」(澤田克己氏)など、積極的に評価する方から内容的な問題点を指摘する方まで様々である。
その中で、小倉紀蔵氏(京都大学教授)が「日本の朝鮮統治が正しかったなどとは本書は決して語っていないので」「嫌韓派は浮かれるな」と言っているように、『反日種族主義』の根底には「日帝の植民地支配」(56ページ)に対する恨みの感情がある。こういう一節がある――「白頭山が民族の霊山に変わったのは、植民地期のことです。亡国の民となり、日帝から抑圧と差別を受けるようになった歴史が、その背景にありました」(132ページ)。
この短い文章の中で、驚くことが2つある。1つは、「抑圧と差別」。もう一つは、「亡国の民」である。「抑圧と差別」であるが、強制労働などなく「生活は非常に自由なもの」(76ページ)、慰安婦の強制連行などなかったし、日本軍慰安婦の数も極端に誇張されていたと批判している著者が、「抑圧と差別」という言葉を使っている。ここに、かの国の人たちの根の深さを感じる。
もう一つの「亡国の民」であるが、「亡国の民」と言われて真っ先に浮かぶのはユダヤ人であろう。バビロン捕囚という苦難の果てに、国を追われて流浪の民として2千数百年世界各地で艱難辛苦を舐めた彼らこそが「亡国の民」であろう。自分たちは住んでいる半島を追われた訳ではないし、過去にもそんな歴史はなかった。常に被害者意識をもって、悲劇の主人公であり続けようとする。
今もそうだが、当時も半島は要衝の地。当時のロシアは南下政策をとっていた。何もしなければ、半島はロシアが支配する地になるかもしれない。
1910年に日韓併合条約に基づいて日本は韓国を併合した。半島の国は、この併合によって植民地支配が始まり、慰安婦や徴用工の問題は、その延長戦で起きた悲劇と捉えて日本をこの間非難・攻撃してきた。そして、それに日本の歴史学者や政治家が呼応して、反日が増幅されるという構造が形成されていった。高校日本史の教科書にも「1910(明治43)年に韓国併合条約を強要して韓国を植民地化し(韓国併合)、……」(傍点筆者/『詳説日本史B』山川出版社.2017年)とあり、世界史教科書にも同じ様な記述がある。
植民地支配と非難するが、当時の植民地経営は国際的に合法活動である。現代の「ものさし」(価値観)で過去を裁いてはいけない。そして、ある意味、喰うか喰われるかの時代。「『日韓併合』は当時の弱肉強食の時代に、日韓それぞれが生き残るために選んだぎりぎりの『マイナスの選択』であった」と朝鮮近現代史研究所所長の松木國俊氏は語る。
ところで、植民地と併合はその語源も意味も違う。植民地は英語でコロナイゼーション(colonization)と言うが、語源を調べてみるとローマのコロニアから来ている。古代は気候や環境の変動があれば食料生産に影響が出たので、それに合わせて居住地を移動、つまり植民をしていたのであろう。それが大航海時代になると、白人が有色人種の国々を征服する際の言葉として使われるようになり、その頃から略奪的な意味合いをもつようになっていく。
(Livedoor)
一方、併合はアネクセイション(annexation)であるが、哲学者のベーコンがイングランドとスコットランドがアネクセイションをしたという言い方をしている。動詞の「annex」には従属関係がないという意味が含まれており、そんなことからも対等な関係による合体というニュアンスがある。当時日本が掲げていたスローガンに「内鮮一体」というものがあるし、「五族協和」ということが言われていた。イギリスの連合王国のようなイメージとして併合という言葉を使ったのだと思われる。
内鮮一体(ないせんいったい、繁体字: 內鮮一體、朝鮮語: 내선 일체)とは、大日本帝国統治下の朝鮮(1910年 – 1945年)において「朝鮮を差別待遇せずに内地(日本本土)と一体化しよう」というスローガンである。(Wikipedia)
五族協和(ごぞくきょうわ、英語: Five Races Under One Union)とは、満州国の民族政策の標語で「和(日)・韓・満・蒙・漢(支)」の五民族が協調して暮らせる国を目指した。(Wikipedia)
植民地支配という感覚でなかったからこそ日本は京城(けいじょう/現ソウル)に帝国大学を作っているし、韓国人の皇族・貴族を日本の華族と同等の扱いをし、朝鮮の李王家の皇太子と日本の宮家の方子女王が結婚している。
鉄道、道路、港湾、水力発電といったインフラを整備し、学校を建設し、農業の改良に努めた。
文字の普及も進み朝鮮日報や東亜日報といった新聞も日本統治下での創刊である。鴨緑江や赴戦江、長津江、虚川江に水力発電所を次々と建設した。このような条件整備があったので、漢江の奇跡と言われる戦後の経済成長があったのであろう。奇跡の陰に日本人の見えざる努力があったのである。
日本の朝鮮統治による変化
明治43(1910)年 | 昭和9(1934)年 | |
人 口 | 1330万 | 2113万 |
歳 入 | 4874万 | 2億6298万 |
鉄道延長距離 | 1086キロ | 2935キロ |
小 学 校 | 128 | 479 |
全産業生産額 | 3億600万 | 14億7000万 |
「海峡を越えて」(『産経新聞』2018.9.1日付) より転載
日韓関係の悪化を嘆く声もあるが、日朝の外交史を調べてみると、古代の一時期と倭寇対策で利害が一致した室町の時期を除いて、実は国レベルで友好的に交流した歴史が余りなく、逆に日韓基本条約締結(1965年)以降の約50年間の「友好関係」が極めて珍しいくらいである。
中国とは遣隋使、遣唐使などにより、漢字、元号、真言宗、天台宗、禅宗、茶の湯、儒教、朱子学など実に多くの文物の移入と人的交流があった。その際のルートも多くは海路を使い、半島を余り使っていない。中世以降はお互い鎖国体制をとったこともあり、儀礼的な通信使が半島から来たくらいである。密貿易や藩レベルの交易は行われていたが、日朝が正式に国交を結んだのは明治に入ってからである。
「隣人とは遠く付き合え」という言葉が日本にあるが、それを地で行くような交流史である。しかし、アジアにも列強の影響が及ぶ時代となり、朝鮮の問題は日本の防衛問題となった。そんなこともあり、日清戦争後に結ばれた下関条約(1895年)の中に「清国は朝鮮の独立を認め」という条文を入れたのである。そして、重要地域と他国も認識しているからこそ、日本は念のためロシア,イギリスの事前了承を取付けた上で,日韓併合条約を締結している。
韓国は未来志向と言いながら、常に過去を持ち出して、それを現代のモノサシで判断してくる。
繰り返すようだが、侵略や植民地支配はだめというルールは、現代には通用するが、当時はそのようなものはなかった。価値観は相対的に存在するので、時代を超越して相手を批判し始めたらおかしなことになる。
明治時代は秀吉の「朝鮮侵略」(『詳説日本史B』)を持ち出し、現在は70年以上前の虚構話を持ち出している。さらに最近は、輸出管理の問題がからみ、民間交流の中止、不買運動と官民一体となって対立の輪が広がっている。
このような事態となった遠因として、日本の国力が弱くなっていることがあげられる。GDPの数値は伸びず、日本の国際競争力は30位(IMD2019世界ランキング)に転落した。少子高齢化の解決のメドも立っていない。
弱い者はいじめられる。国際社会も同じ力学が働く。あってはいけないことだが、現実の世界では、そのように動いてしまう。国づくりは人づくり。軍事的防衛も大事だが、経済と教育の両面から国力を高めることを忘れてはいけない。
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