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新5千円札の「顔」、津田梅子の紹介 ―— 女子の高等教育の普及の活動に自分の生涯 / 生物学に打ち込んだ研究時代 

女性

「昨日は、日本全国新札フィーバーという感じでしたね」

「キャッシュレスの時代なので、必要ないという意見もあったみたいですが、多くの人は好意的に受け止めているようです」

女性

「一種のお祭り騒ぎのようなノリを感じました」

「お札の顔になった人を皆でお祝いするという感覚だと思います」

女性

「新札の発行は20年ぶりだそうですね。渋沢栄一の地元の埼玉県深谷市では、大変な盛り上がりようだったみたいですね」

「テレビを見ていましたが、朝早くから多くの人が銀行に並んだようですね」

女性

「日本人の地元意識というのは、まだまだ強いのだなと、あれを見て実感しました」

「津田梅子の創設した津田塾大学でも学内でグッズが販売されたそうです」

女性

「私は女性の立場から、津田梅子をもっと取り上げて欲しかったなと思っています」

「女子の高等教育の先駆者ということですが、彼女はもともとは生物学の研究者で、そちらの方面からの誘いもあったようですね」

女性

「余りそういったことは知られていないと思いますが、様々な状況の中で、迷いや葛藤があったのでしょうね」

「戦前は女に学問はいらないと言われた時代です。その一方で、親や学費を出してくれた日本政府に恩義を感じていたようです」

女性

「自分の研究と女性にとっての学問・研究環境を整備する。どちらに身を捧げるか。私だったら、自分の研究を優先してしまうかもしれません」

「そんなことも含めて、ドラマになって放映されるかもしれませんよ」

女性

「『津田梅子』の評伝も出版されています。期待しましょうか。ここからが本論です ↓ 表紙写真は「政経百科」提供です 」

 岩倉使節団とともに渡米、そして留学

明治の草創期の1871(明治4)年に、明治政府は欧米の各国に総員60人位の大使節団を派遣します。団長の岩倉具視の名前をとって、岩倉使節団と呼んでいます。派遣された期間は実に1年10か月に及びます評価する方が多いのですが、日本の法制度や歴史・文化を研究して足許を固める時期なのに、それをせず物見遊山的な外遊に対して私は批判的です。それはともかくとして、実はその派遣団の中に6歳の女子留学生がいました。それが津田梅子だったのです。(下の右の写真は派遣団の女子/膝の上に乗っているのが津田梅子)

どうして6歳の女の子がそのような使節団の一行に加わることができたのか。一言で言えば父親であり農学者の津田仙の力です。津田仙は1867年に江戸幕府の遣米使節の通訳として渡米しています。当時のアメリカの女子教育のレベルの高さに衝撃を受け、娘を教育するならば、アメリカでと考えるようになったようです。

当時、政府から1年あたり約千ドルの学費が支給されたそうです。当時の小学校教員の初任給が3~5ドル程度なので、破格の待遇であったことが分かります。英語があまり話せず、家族や知り合いがいない生活で心細さはあったと思いますが、経済的には不自由はなかったと思います。8歳になると、私立の女学校でフランス語やラテン語を学び始めます

(「新生宣教団」)

 帰ってきた留学生の活躍する場所がない

当時の日本の教育制度の状況を簡単に説明します。学制が発布され、近代教育制度がスタートするのが1872年です。中央集権国家を目指しましたので、官僚を養成するという課題が出てきました。そのため帝国大学令を発布して、官僚養成のための帝国大学を全国7か所に創設しますが、当初は女子の受験を認めていませんでした。ちなみに、女子の入学が認められたのは1913(大正2)年の東北帝国大学が最初です。そんな時代です。だから、津田梅子が日本にいても、高等教育を受けることはできなかったのです。

アメリカに留学した津田梅子が日本に帰ってきたのは1882(明治15)年の7月です。17歳になっていました。日本銀行が設立され、日本銀行券が発行された頃です。彼女もその銀行券を見ていると思いますが、まさか自分がやがてそのお札の顔になるとは思ってもみなかったでしょう。

約10年間の留学生活を終え、バイリンガルとして成長した女性。現代であれば、様々なところからお呼びがかかり、就職先には困らないと思います。ところが、彼女が能力を発揮する場所がないのです。日本の社会が彼女に追いついていなかったということです。

(「国立印刷局」)

 女子の高等教育の普及の活動に自分の生涯を捧げる

日本での居心地の悪さが、再び彼女をアメリカに向かわせます。再度の渡米は1889年、24歳の時です米ブリンマー大学に留学をしますが、当初は教育法を学ぶ予定だったそうです。日本で英語を教えていましたので、その問題意識があったのだと思われます。

ところが、トーマス・モーガン准教授に師事をして生物学を研究します。日本の大学は入り口と中身が指定されているので、教育学を志した人間が途中から生物学を勉強することはできません。アメリカの大学は可能というか、ある意味当たり前の措置なのです。その後研究を重ね、渡米して5年後の1894年にはカエルの受精卵についての研究論文がイギリスの学術誌に掲載されています。日本の女性として、掲載第1号となります。

トーマス・モーガン氏はその後、染色体の突然変異の研究で1933年にノーベル生理学・医学賞を受賞しています。そのモーガンからアメリカでの研究生活を続けないかという誘いを受けます。梅子は帰国後もしばらく生物の研究を続けていました。未練は当然あったと思いますが、女子の地位向上のために高等教育を普及させるという活動に自分の生涯を捧げる決意をするのです

参考:青木慎一「選べなかった科学者への道」(『日本経済新聞』2024.6.30日付)

(『日本経済新聞』)

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