「実は先日、終戦なのか、敗戦なのかと言うことで、仲間と言い合いになりましてね」
「あら、そうなんですか。珍しいですね」
「お互いアルコールが入っていたこともあってね。彼は、終戦と言って譲らないし、私は敗戦でしょと言い張りました」
「えっ、そういうことは余り考えたことがありませんでした」
「どちらだと思いますか?」
「無条件降伏ですから、実際には敗戦でしょうけど、終戦記念日と言いますよね。彼はどうして終戦だと言うのですか?」
「昭和天皇が『終戦の詔勅』を出して、すべての戦闘が終わったのだから、終戦だと言うのです」
「それに対して、どう反論したのですか?」
「8月15日にラジオで「終戦の詔勅」が読み上げられましたが、あの中で終戦という言葉は全く使われていません。「戦局必ずしも好転せず」とか、あと……」
「「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」は有名ですよね」
「とにかく、あの放送は国民に向けて一切の戦闘は終われ、ということを伝えるためのものだったのです」
「要するに負けたから、そういう放送が流されたということですね」
「そうですね。ただ、未だにそういう言い合いをするということは、戦後の歴史がきちんと総括されていないのではないかと思ってしまいました」
「私は単純に、いつまで「戦後」という言葉を使うのかしらと思っています」
「確かにそうですね。3/4世紀以上経った今でも戦後と言っていますからね」
「ここからが本論です ↓ 表紙写真はミズリ―号甲板で降伏文書を調印するところです。「ダイヤモンド・オンライン」提供です」
「占領革命」「占領改革」と言われたこともある
ポツダム宣言を受諾して敗戦が決定的となり、その敗戦を国民に知らせるために「終戦の詔勅」が出されます。終戦記念日と言うのは、まさか敗戦記念日とする訳にもいかないので、「終戦の詔勅」が出された日であり、日本国民にとって忘れてはならない日ということで付いたネーミングです。
その後連合軍(GHQ)と言っても、事実上アメリカ軍による占領が始まります。1945年9月2日の降伏文書調印から1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効までの約7年間を占領期といい、その間に新憲法発布など、政治、経済、教育分野において様々な改革指令が出されます。
それらを総称して一般的には「戦後改革」という言葉を使いますが、当時の識者の中には「占領革命」「占領改革」という言葉を使っていた方もいました。その位ラジカルな改革であったということです。
(「Amebaブログ」)
日本は「外圧」に過剰に反応する「性質」がある
日本という国は「外圧」に過剰に反応する「性質」・「クセ」があります。司馬遼太郎氏が何かの本に「日本人は海の向こうから幸せがやってくると思っている」というようなことを書いていました。確かに七福神は宝船に乗っていますので、あのようなイメージなのでしょう。古代に渡来人たちが織物、漆、建築といった技術を日本に伝えました。それらは当時の日本にとって有難い技術だったと思います。それ以前であれば、文字や稲作、金属器といったものも大陸から伝わってきています。そういったことや、大漁旗を掲げて帰ってくる船団を何回も見ていたと思います。そういう経験が日本人のDNAの中に刷り込まれているのではないかと思います。
幕末の黒船ショックが明治維新を引き起こします。幕府は「異国船打ち払い令」を出していたのに、実際に黒船が浦賀に来航すると、何も出来ず右往左往するだけでした。「上喜撰(じょうきせん)たった四盃(しはい)で夜も眠れず」。当時の狂歌です。上喜撰というのは宇治の高級茶です。蒸気船と掛け合わせて詠んだ一句ですが、当時の状況が伝わってきます。
「黒船」のペリー提督が将軍に持参した土産は、ミニチュアの蒸気機関車、電信機、回転式拳銃といった文明の機器でした。西洋文明にひれ伏すように過剰に反応します。日本人のDNAが動いてしまったのでしょう。1858年、幕府は勅許(朝廷の同意)なしで日米通商条約を締結してしまいます。朝廷は驚きます。
(「イラストくん」)
戦後占領を肯定的に受け止める
終戦となりGHQと言っても実質的にアメリカ軍による戦後占領が始まります。「外圧」に過剰に反応する「性質」がそこで出たと思っています。GHQ憲法草案が元になって現在の日本国憲法が制定され、現在まで命脈を保っているのはその「性質」に因る部分もあると思っています。それと同時にアメリカ民主主義とソビエト社会主義が二大公準として日本人社会に浸透していったのです。
大敗北から敵方の全面占領を受ければ、それは最大の屈辱であり苦しみなので、本来はそこから反省が生まれて、今までの歩みを総括するはずです。ところが、幸か不幸か、その占領を多くの国民が肯定的に受け止めてしまいます。共産党は当初は占領軍を救世軍と呼んでいたくらいです。
そして戦後すぐの時期に2つの大きな国際事変が起きます。中国革命(1949年)と朝鮮戦争(1950年)です。極東情勢が急変したため、アメリカの対日占領政策が変更されます。アメリカは日本だけを見ている訳にはいかなくなります。大陸と半島をも視野に入れた占領政策を考えます。在日米軍を極東方面の監視組織として活用する方途を探ります。そのためには日本との講和を急ぎ、在日米軍を半永久的に使用できることを考えます。1951年にサンフランシスコ講和条約が結ばれ、1956年に国連に加盟します。敗戦からわずか11年後です。
日本と同盟を組んで戦ったドイツですが、こちらは国を2つに分割された上に、国連加盟(東西同時加盟)は1978年です。ドイツが降伏してから33年の年月が経っています。日本の国際社会の復帰がドイツと比べて異常に短いことが分かります。戦後の総括を狂わせた一つの原因になっています。
(「X.com」)
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