「昨日(8/19日)、NHKでチコちゃんに叱られるを放送していましたね」
「ほう、そう!」
「つまらないダジャレは読者を減らします」
「すいません。それで、何か為(タメ)になったことがありましたか」
「驚いたことがありました。戦後すぐの時には、「自由研究」という授業時間があったんですね」
「4年間位ですよね。私は社会科の教員だったので社会科にまつわる話をすると、実は社会科という名称は、日米の話し合いの中で突然決まった名称なんです」
「えっ、そうなんですか? 当初はどういう教科名の予定だったのですか? 」
「戦前から馴染みのある公民科ですね。地歴科と修身科はGHQによって停止されてしまいます。それで文部省は、公民科を子供たちの社会認識を育てるための中心教科に位置付けようとしたのです」
「アメリカ教育使節団報告書が出されますよね」
「よく、知っていますね。戦後すぐの1946年1月に27名のアメリカ人が日本に1か月滞在して報告書をのこします」
「一応、教職を採っていましたので。大学でその話を聴いた時、アメリカって、凄い国だなって驚いた記憶が強かったので、覚えているのだと思います」
「まあ、普通は敗戦国の教育なんかに関心をもちませんからね。驚きついでに言うと、実はアメリカは終戦の3年位前から日本の教育について研究し始めているのです」
「成る程、敗戦後すぐに使節団を派遣できたのは、そういう動きがあったからなんですね。ただ、どうして、そんなに早くから日本の教育を調査していたのですか?」
「日本人のファンディング・スピリットは一体どこから来ているのか、それは当然教育からなので、分析しろということだと思います。じゃあ、私の方から。チコちゃんの感じで質問します。「多くの動物の中で、どうして人間だけ自分の子供を殺すのでしょうか?」
「えっ、……! そう言われれば、動物は鳥も含めて、自分の子供を慈しむようにして育てますよね。人間だけ……。それは、考える動物だから」
「訳が分からない答えです。ボーッと生きてんじゃあねえよ!」
「すいません、答えは本論に書きます ↓」
人間だけが子供を殺してきた
子どもに対する虐待、果ては命を奪うという事件が日本でも数多く報道されるようになりました。文明の高度化、核家族化の進展、地域社会の崩壊など、様々な理屈を並べて論じたりしていますが、実は子殺しというのは、太古の昔、つまり人類がこの地上に現れると同時位から発生していたものなのです。
それは、ある地域が特にということではなく、地球上の至るところで起きた現象なのです。
一つの風習として行われた場合もあります。例えば、子どもは2人までという風習というか掟があって、3人目は殺すというものです(パプア族その他)。または、双子の場合は不吉なので2人とも殺すとか、一人を殺すというものもあります(ベニン族、アルンタ族など)。障害を持って生まれたら殺す、凶の日に生まれたら殺す、暴風雨の時に生まれた子は殺すなどがあります(カムチャツカ、マダガスカルなど)。
変な理屈を付けて、人類は我が子を殺してきたのです。神様からすれば、とんでもない連中と思っているかもしれません。
(「リセマム」)
子殺しは、「人間が社会的動物だから」起きる
今まで出した例は、未開社会の例です。ただ、各国の記録や歴史を調べると、文明社会になっても子殺しが止まらなかったことが分かります。
こういう記録が残っています――ローマ市の創立者ロムルスは「不具、奇形でない男児はすべて育てよ、女児は長女のみ育てよ」。このような命令を出したのは、生産力を考えてのことだということが分かります。そのため、近代国家の時代になっても、子殺し、捨て子は止むことはありませんでした。
子殺しは何故、起こるのでしょうか。そろそろ、チコちゃんの問いに答えなければいけなくなりました。チコちゃん流に答えるならば、「それは、人間が社会的動物だから」ということになると思います。
人間は社会的な営みをする中で組織やきまりを作ったり、それを維持したり守ろうとします。その過程において文字や言葉、音楽、踊りといった様々なパフォーマンスを使います。人間は動物なので、子どもに対する基本的な愛情を誰もが持つのですが、それを打ち消すほどの強い社会的なインパクトがあった場合は、愛情が負けてしまうということなのです。
ただ、昨今の子殺しと虐待は、そういった時代の流れとは別の要因の中で発生しているような感じを受けますし、現代において新たに考えなければいけない問題も起きていると思います。
まず、虐待ですが、日本でも年々増えていることはデーター上明らかです。これは一体何なのかと思っています。虐待というのは、動物の世界では存在しませんし、人類史の中でも近年において現れている現象だからです。
(「楽天ブックスー楽天市場」)
「体罰禁止法」によって体罰を減少させる
スウェーデンは1979年に世界で最初のあらゆる場面における子供への体罰を禁止する法律を制定します。その結果、体罰が国内から減少します。これ見ると、法律による対応が一つ有効な方法であることが分かります。これに倣ってフィンランド、ドイツ、ニュージーランドでも体罰禁止法を制定します。
フィンランド | 1983年 | 体罰の容認 | 47%→15% |
ドイツ | 2000年 | 軽く頬を叩くことの容認 | 83%→25% |
ニュージーランド | 2007年 | 体罰の容認 | 90%→40% |
数字がいずれも減っているのが分かると思います。見方は例えば「フィンランド」であれば、「体罰の容認」派が法の制定によって、47%から15 %に減少したという意味です。
日本は2020年2月28日に、世界で59番目の体罰禁止国になりました。その法的効果はこれから徐々に現れてくると思います。とにかく、自分の子どもでも、別人格です。日本では「愛のムチ」という言葉があり、体罰容認の雰囲気がありますが、子供の健やかな成長を願うならば親として体罰に頼らずできる限りの努力をする必要があるでしょう。
親の体罰は子供にトラウマ(心の傷)として必ず遺るからです。それが証拠に、私ははるか50年以上前に父親に叩かれたことをよく覚えています。「親に口応えするのは親不孝だ」と言われましたが、理屈が通っていません。「愛のムチ」論を言う人がいますが、実際には自制が効かなくて叩く、殴るということだと思っています。多くは憎しみの感情が込められているので、どうしてもトラウマとして遺るのだと思います。
人間は精密機械です。そういった「被害」を受けることによって、心が壊れることもあります。修復に物凄い時間が掛かる場合もあります。下手をすると、その人の人生そのものが壊れることがあります。それを無くそうということです。親からすれば一つのビンタ、子どもからすれば一生の傷として記憶に残るビンタもあります。その辺りが、他の動物とは違うところなのです。
(「LINE NEWSとは」)
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