「昨日のブログで紹介した渡辺京二著の『逝きし世の面影』(平凡社、2005)の中に、興味深いところがありますので、話題にしたいと思います」
「率直に、どこですか?」
「第10章の「子どもの楽園」という章です」
「あっ、しょう(笑)」
「つまらないシャレは、やめましょう」
「すいません、時代背景はいつ頃ですか?」
「江戸末期から明治にかけての時代です」
「その時代は、日本は「子どもの楽園」だったということですね。訪日の方が言っているのですね」
「そうです。その第10章は訪日外国人たちが遺した証言により構成されています」
「そのことは考えてみれば、当たり前なのかもしれません。当時の日本人にとっては、何の変哲もない日常風景だった訳ですものね」
「そうですね、自国の子どもたちと比べての言葉ですからね」
「その外国人の国は、いろいろな国に散らばっているのですか?」
「要するに、ある特定の国だけに偏っていないかと言っているのでしょ。それは大丈夫です。まず、日本が「子どもの楽園」という表現を最初に用いたのはオールコック(1809-1897)という人です」
「その方は、どういう立場の方ですか?」
「イギリスの外交官であり、初代駐日総領事です。結構、晩年になって日本に来ていますので、様々な人生経験をしていると思います」
「重い言葉として受け止めてよいということですね」
「そうですね。ここからが本論です ↓」
日本は「子どもの楽園」だった――多くの外国人の証言
渡辺京二著の『逝きし世の面影』の第10章の内容をかいつまんで紹介したいと思います。
スエンソン(1842-1921)はデンマーク海軍の軍人で幕末に日本に滞在し『江戸幕末滞在記』(講談社学術文庫)を遺しますが、その中で日本の子供は「少し大きくなると外へ出され、遊び友達にまじって朝から晩まで通りで転げまわっている」と書いています。
お雇い外国人として来日したネットー(1847-1909)とワグネル(1831-1892)は共にドイツ人の技師です。2人は東京帝国大学で教鞭もとっていますし、ワグネルは当時の日本にガラスや石鹸の製造技術を指導し、日本で生涯を終えた人物です。その2人の共著で書かれたものが『日本のユーモア』ですが、その中で「子供たちの主たる運動場は街上(まちなか)である。……子供は交通のことなどすこしも構わずに、その遊びに没頭する」とあります。
そういったことについてネットーは「大人からだいじにされることに慣れている」からだろうと推測します。1889年に来日したアーノルドは「子どもたちは重大な事故をひき起こす心配などこれっぽっちもなく、あらゆる街路のまっただ中ではしゃぎまわるのだ。この日本の子どもたちは、優しく控え目な振舞いといい、品のいい広い袖とひらひらする着物といい、見るものを魅了する。手足は美しいし、黒い眼はビーズ玉のよう。……」と言っています。
大森貝塚を発見したアメリカの動物学者エドワード・モースも「私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない」(『日本その日その日』)と断言しています。
(アメブロ 「蘇る幕末 針尾三郎随想録」)
当時の日本人は子どもを叱ったり罰したりしなかった
この章を読み進めるほど、当時の日本の子どもたちを取り巻く風景が今と明らかに違うのが分かります。現代は虐待が増え、自分の子どもを殺す親まで出る始末ですが、当時はそういったことは全く起こり得なかったと思われます。
「日本人が子どもを叱ったり罰したりしないというのは実は、少なくとも16世紀以来のことであったらしい。16世紀末から17世紀初頭にかけて、主として長崎に住んでいたイスパニア商人アビラ・ヒロンはこう述べている」(渡辺京二 前掲書、392ページ)
さらに「日本の子どもは泣かないというのは、訪日欧米人のいわば定説だった。モースも「赤ん坊が泣き叫ぶのを聞くことはめったになく、……」、このように赤ん坊も含めて子供たちが泣かないのは、「刑罰もなく、咎められることもなく、叱られることもなく、うるさくぐずぐず言われることもない」(渡辺京二 前掲書、394ページ)
(「エドワード・モース」/city.yao.osaka.jp)
官僚集団が日本の教育を一括して指揮している間は、日本の教育は良くならない
どこから狂っていったのでしょうか。文部科学省という教員免許も実務経験も全くない官僚集団が日本の教育を一括して指揮している間は、日本の教育は良くならないと思っています。
その文部科学省が先日の15日に2020年に自殺した小中高校生の数を発表しました。統計をとり始めた1980年以降最多の479人という数字は前年と比べて140人の増加。479人の内訳ですが、女子高校生の自殺者が138人で前年比71人増、男子高校生は191人で前年比21人増、中学生は136人、小学生は14人です。下のグラフは2017年までのものです。「479」という数字がいかに大きい数字か分かると思います。子供の数が減っているにも関わらず、自殺者が増えている。そこには必ず何らかの原因があるはずです。
(「教育新聞」)
ただ、発表の仕方について何となく腹が立つのは、「原因や動機は学業不振、進路の悩み」という言葉ですべて処理しようとする態度です。さらに感覚を疑うのは、「自殺予防について検討する有識者会議」の委員から、これからはタブレットを1人1台配るので「自宅で過ごす子供の心身の変化を見たり、担任によるアンケートやストレスチェックに使ったりできる。自殺予防でも大きな役割を果たす」(『八重山日報』2021.2.16日付)というコメントです。言った本人に悪意はないと思いますが、現場について何も分かっていないというのが分かります。
大事なことは、自殺をする原因となったものを探り当てて、そうならないように予防策を講じることです。タブレットを配ると、子供たちが自殺するかどうかが分かるのだと言います。発信機だと思っているようです。そんな単純なことで分かれば、現場の教員は苦労はしないでしょう。アンケートに答えない子、自分の気持ちを言わない子もいます。本当に深刻に思い詰めた子供が、アンケートやストレスチェックで発信するとは思えません。原因を無くさない限り、タブレットを配っても、自殺者が減ることはありません。タブレットは魔法の機械ではありません。文科省はこの程度の感覚なのです。そもそも、明治の時代はタブレットはありませんでしたが、自殺をする子は殆どいなかったでしょう。
自殺を決意するというのは、本人にとって相当なことがあったと推察されます。自殺に至る事情は一人ひとり違います。単純に、「学業不振と進路の悩み」と言いますが、そのことで悩んでいる児童・生徒は何十万人もいます。そこから一歩踏み越えて死への道を選択した訳ですが、その個々具体的な事情を集約する必要があります。多分、細かな分析をしていないと思います。そして。少なくとも全国集計データではなく、都道府県別、地域別に出す必要がありますし、その中から法則性なり因果性を見つける努力をする必要があるのです。
そして、そもそも今年はコロナ禍で休校措置をとっていた学校も多くある中で、どうして「学業不振と進路の悩み」という学校に関わる事情による自殺者が増えなければいけないのか。少なくともそのような「因果関係の謎」について何らかのコメントをする必要があると思われます。
読んでいただき、ありがとうございました。
よろしければ、「ブログ村」のクリックをお願い致します ↓