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神話教育の目的は、健全な日本人の育成にあり / 脳外科医による人間の「心」の発見

  • 2021年2月17日
  • 2021年2月18日
  • 教育論
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「今日も神話教育の話をしたいと思います。今日は、それにちなんで世界観のことに触れてみたいと思います」

女性

「哲学的な話は、少し苦手ですので、分かりやすくお願いします」

「一番身近な人間存在について考えてみましょうか」

女性

「人間をどう見るか、単なる肉体の塊と見るのか、何か精神作用を命じている「理性」といったものがあるのか、といった見解の対立がありますよね」

「かつてワインダー・ペンフィールド(1891-1976)というアメリカ生まれのカナダの脳神経外科医がいて、人間の脳の電極実験をしたりして解剖・解析して調べていったのですが、脳そのものを動かしている機能が脳の中にないことを発見します。そして、やがて彼は2元論者になります」

女性

「ないと言っても、実際には動いている訳で、その辺りをどのように考えたのですか?」

「ペンフィールドは『脳と心の正体』(法政大学出版局、1987)という著書の中で、「意識の流れの内容は脳の中に記録される。しかしその記録を見守りながら、かつ同時に命令を出すのは心であって、脳ではない」と言います」

女性

「『心』という言葉を使ったのは、ある意味凄いことですね」

「要するに、脳を動かすものは、人間の身体の中にはない。だけど、動かしている主体はある。それを彼は、『心』と言わざるを得なかったのでしょうね」

女性

「確たるエビデンスがなかったということですか?」

「唯物論者は気軽にエビデンスと言いますが、「究極のモノ」を提示することは不可能ではないかと思っています」

女性

「確かに、私もそう思います」

「あたかも唯物論的な見方が科学的なようなことを言っていますが、文系の学者は唯物論者が多く、理系の学者は多次元論者が多いのです。多次元論者というのは、哲学的には観念論に類別されることになると思います」

女性

「ここからが本論です ↓」

 脳外科医が発見した人間の「心」

上の2人の会話の中で紹介されていたペンフィールドですが、彼の「ペンフィールド・マップ」というのが有名です。彼は、脳の様々な部位に対して電気刺激をすることによって、脳の機能がまるで地図のように場所ごとに分担されていることを明らかにしたのです。

彼のお陰で、体内のすべての器官は、脳の中の何らかの部位と繋がっていることが分かりました。さらに、モノを見る、音を聞く、体を動かす、さらには考えるといった指令についても、前頭葉の中のそれに該当する部位が働き、その相関関係も明らかにしたのです。ところが、全体を統括して指令する部位がどこを探してもないのです

要するに、管弦楽団に例えますと、それぞれパートごとの楽器がどこに配備され、譜面がどこに管理され、過去の演奏データがどこに保存されるかといったことまでは分かったのですが、指揮者がどこにいるのか分からなかったのです。

ペンフィールドは、「指揮者」を「心」と表現したのです。その「心」は唯物論の立場では理解できないものでしょう。

(管理薬剤師.com)

 神話教育の最大の狙いは、人間は物質的な存在ではないことを教えるところにある

唯物論の立場からすれば、人間も単なるモノとなりますので、死ねばすべてそこで終わりという人生観になります。そうすると、どうしても生きている間に自由に好きなことをやって、自由に生きれば良いという人生観になりがちです。自分のことだけ考えて、自分が心地よいと考える生活だけを追究する人生となりがちです。皮相的な人生観となります。死ねば無なので、人生そのものが全く意味がないものとなり、自分が属する集団も国も最後には無くなるので、そのために働いても意味はありません。人生は究極の目標もなく、さまよい歩くことになります。唯物論の立場から、道徳を説いても、このように説得性は殆ど無くなります。

道徳の教科化によって教科書も作成されていますが、そのベースに唯物論と「パーツ主義」があるので、殆ど徳性は高まらないでしょう。「パーツ主義」というのは、単元ごとに、例えば「いじめはいけないこと」とか「環境を整備しよう」といった獲得目標が掲げられるというものを言います。

日本の神話の特徴は、神と人間を繋げたところにあります。そうすると、どうなるのか。神の子孫が人間となり、人間、つまり日本人は神の願いをこの地上に実現するために働く必要が出てきます。『初等科國史』には「大神は、大八洲を安らかな国になさろうとして、御子孫をこの国土にお降(くだ)しになることをお考えになっていました。」という文言があります。『初等科國史』というのは、戦前の日本の小学校で使われていた歴史教科書です。

その内容から、人々が安らかな思いをもって送れるような国にするために、努力しなければならないという命題が導き出されます。そして、一人ひとりは神の子として守られるけれど、それは同時に神に対して恥ずかしくない行ないを絶えず心掛けなければいけないという教えになります。

さらに、死んで終わりという存在ではなく、「自分」という存在はたまたま今の肉体に宿っているけれど、この世で「自分」を高めて、神のもとに最後は帰る尊い存在であることを知らせることになります。

昨日のブログでも書いたように、神話教育というのは、日本の国民を道徳的に導くためのものなのです。ヨーロッパやアメリカでは、宗教の時間に聖書を使って道徳的な指導を行います。同じです。唯物論的発想では、人間を道徳的に導くことは出来ないという出発点に立つ必要があるのです。

歴史学会の方から、非科学的という批判を受けることがありますが、神話教育と歴史とは全く目的が違いますし、別物です。見当違いの批判なのです。

 日本人の道徳性のルーツを探ると「カミ」に行き当たる

1812(文化九)年10月、泉光院という老修験者が宮崎を旅立ちます。南は鹿児島から北は秋田まで農山村を中心として托鉢をしながら、時には加持祈祷をし、また、時には句を交換し、頼まれれば弓を教え、居合術まで見せつつ、全国およそ1万キロを六年二ヶ月かけて旅した記録を『日本九峰修行日記』としてまとめます。

著者の石川英輔氏が、その行程を丹念にたどったものが『泉光院江戸旅日記』(講談社文庫、1997年)です。驚かされるのは、その6年余りの旅の中で、野宿が1度もなかったことです。「善根宿 (ぜんこんやど)」という個人が旅人を無料で泊める家が全国至る所にあった様です。


江戸時代の後期、日本には心優しい人たちが全国各地至る所にいたということでしょう。幕末の日本に滞在したチェンバレンは「古い日本は妖精の棲む小さくてかわいらしい不思議の国であった」「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」(『日本事物誌』)という言葉で当時の日本を評しています。また、アーノルドは「地上で天国あるいは極楽にもっとも近づいている国」と賞賛しています。(渡辺京二『逝きし世の面影』平凡社、2005)

その他、幕末から明治期にかけて日本に来た外国人の見聞録が残されていますが、殆どが驚きと称賛の感情で当時の日本の様子を描いています。そういった国民性を培ったのは、地域が家族主義的な機能を果たしていたこと、さらには「八百万の神」(アニミズム)信仰の影響でしょう。そういった文化が地方の祭りや新年の初詣などに残っていますが、唯物論の煤(すす)によって錆付き始め、それが日本人にも及んでいます。

(「ペンギンメモ」)

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