「月刊『Hanada』の7月号に百田尚樹氏の「中国虐殺全史」という文章が掲載され、興味深く読みました」
「何か、凄い題名ですね」
「まあ、そうですね。ちょうどウイグル自治区で中国が行っていることはジェノサイドではないかということで国際非難が高まっています。この文章を読むと、今だけ特別ではなく、彼らにとってある意味一つの常識なのかもしれないと思い始めています」
「報道官は平然とそういう事実はないと言っていますよ」
「映像も証言も出ているし、本も出版されているので、そういった事実はあるのでしょう。ないというならば、職業訓練施設など疑いがかけられている関係施設の内部を公開すれば良いのです」
「それはしない」
「したら、大変なことになるだろうということは分かっていると思います」
「だけど止めない。それが私には不思議なんです」
「騒がれているので、それを止めるだけなのにどうして出来ないのか、実は私も疑問にずっと思ってきたのですが、百田氏の論文を読んで4000年来身に付いてしまったことなんだと理解できました」
「そんなに根が深いものなんですか?」
「幻と言われていた夏(か)王朝の遺跡が発掘されているのですが、夥(おびただ)しい数の人骨が発見されたことと、その人骨が頭蓋骨陥没、顔面陥没、手足がない、など大量虐殺を思わせるような状態だそうです」
「それじゃあ、中国は公表しないのではないでしょうか」
「昔はそうだったで終わりでしょう。昨年の5月には今から3000年前のものと思われる首のない人骨が河南省から発掘されたそうです。生贄という名の虐殺が約200年間で13000人以上行われていたことが甲骨文字から確認されたそうです「」
「ここからが本論です ↓」
目次
中国を知るためには、中国の歴史を学ぶ必要がある
21世紀の現代、世界は中国という一つの国に振り回されています。日本は振り回されているどころか、完全に影響下に置かれてしまっています。それはどこで分かるか。国会で中国に対して人権問題で非難決議を挙げようとしたところ、与党内で意見調整が上手くいかずに結局今国会での決議は出来ないということになりました。これは、何らかの「工作」があったということでしょう。国会は国権の最高機関です。その最高機関に影響力を行使出来るまでに中国の力が及んできているというふうに見るべきなのです。
それほど影響力を増している中国ですが、中国について実は何も分かっていないまま「ノー天気」にやり過ごしているのが日本の姿なのです。人間というのは、他人を見る時に自分を規準にして考えます。他人を見ているのですが、実は見ているのは自分なのです。自分が狂暴な人間と自覚をしていれば、周りの人たちはみな狂暴だと思っているはずです。だから、泥棒は多分一番用心深いと思います。
そのような心理学の理屈からすると、日本人が中国を見る目と、中国が日本も含めて周辺諸国を見る目は違います。そして、防衛を考える場合は、前者ではなく後者の視点で考える必要があります。だから、中国がどのように見ているかを知るためには、中国の歴史を学ぶ必要があるのです。
(「ツイマグ」)
中国には「虐殺王朝」が次から次へと現われては消えていった
百田氏は「虐殺王朝」が次から次へと現われ、中国は「歴史を消してきた民族」だと言います。一番分かりやすい例が秦なので、それを例にとって見てみましょう。
秦は戦国時代の7雄と言われたうちの1国です。秦は戦国時代の「トーナメント」戦を勝ち上がり、ついに紀元前221年に中国を統一します。巨大な権力を握った王は自ら始皇帝と名乗り、郡県制の施行、貨幣や文字の統一、万里の長城の建設、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)などを行うなど巨大な帝国を築き上げます。ここまでは教科書的な説明です。
この秦の「トーナメント」戦の勝ち上がり方と、焚書坑儒が余りにも強烈なインパクトを中国の大地に残したのではないかと思います。その手法を伝統的に後々の中国の為政者たちが踏襲します。そして、現在もそのDNAが受け継がれていると考えれば、戦狼(せんろう)外交と呼ばれる最近の中国の周辺諸国に対する傍若無人な振舞いや香港、ウイグルでの言論弾圧、人権蹂躙など、一応合点がいきます。
「トーナメント」戦の詳細については司馬遷の『史記』に記されているのですが、有名な戦いは「伊闕(いけつ)の戦い」と「長平の戦い」だと百田氏は指摘します。前者は魏、韓、周の3国連合軍を破った戦いで、その際に敵方の兵隊24万人を斬首しているそうです。後者では40万人の捕虜を生き埋めにしたそうです。逆に、その位の強さでなければ戦国の「トーナメント」戦は勝てなかったのかもしれません。ただ、当然それに対して学者文化人が批判をするでしょう。それに対して行ったのが焚書坑儒です。儒学者400人以上を生き埋めにして、関係書籍を全国から集めて燃やしてしまいます。
巨大な帝国も内部分裂から崩壊していった――組織は内部を固めることが大事
これだけの強力な巨大帝国を築いたのだから、後は後継者にこの国を守らせれば、未来永劫繁栄すると普通は思います。つまり、一代で立派な大企業に育てれば、後は暖簾(のれん)を守ることだけを考えれば良いわけです。ところが、一代で終わってしまうのです。世界史の教科書(山川)には、「始皇帝の死後まもなく各地で反乱がおこり、秦はわずか15年で滅んだ」とあります。何故、そんなにあっさり滅びてしまったのか、ということです。教科書には外部要因(反乱)だけ書かれていますが、そんなものは巨大な軍事力で鎮圧できただろうと思います。だから、実際にはどうなのかということです。
始皇帝は後宮(こうきゅう)、つまり大奥を作ります。自分の子孫に帝国を継がせたいと思ったのでしょう。人間誰もが考えることです。後宮には中国全土から約3000人の美女が集められたと言います。そのため始皇帝には多くの子供がいたと言われ、男子だけでも20人以上いたことが分かっています。これだけお世継ぎもいれば、中には聡明な人間もいるはずなので、もうこの帝国の前途は洋々と普通は思います。実際に、長男の扶蘇(ふそ)が2代目と決まっていたのです。
(「故事・ことわざ辞典・辞典オンライン」)
簡単に言えば、内部崩壊が起きるのです。主要因は外の反乱ではなく、内部分裂だったのです。その主原因を作ったのが、宦官(かんがん)の趙高(ちょうこう)という人物です。宦官というのは、中国独特のもので、去勢された官吏(かんり)のことです。簡単に言えば、後宮に自由に出入りして、奥方たちの面倒を見る人間が必要なのですが、変なことまで面倒を見られたらたまりませんので、性器を切り取って仕えさせたのです。
皇帝からすると、そこまでして仕えてくれるので宦官には心を許したのかもしれません。逆に、宦官は自由に皇居にも後宮にも自由に入ることができたのです。中国の歴史の中では、この宦官が裏舞台で暗躍することがしばしばあります。考えて見れば、ある意味当たり前かもしれません。切り落とされているので、自分の家庭を持つという楽しみは永久にありません。あとの楽しみは、人間を動かして権力をどうすれば握ることができるかを考えるか、文学芸術に価値を見出すか位しかないのです。ちなみに後者の例としては、『史記』を書いた司馬遷がいます。
宦官の趙高の暗躍ぶりは百田氏の先に紹介した論文に詳しく書かれていますが、簡単に言えば、謀略と脅し、粛清によって政敵、あるいは政敵になるであろう人間を疑いをかけてどんどん殺していきます。そして、中国の場合は、その家族まで殺してしまうので、数的に凄まじい数になります。
(「日本の古本屋」)
戦後の腰抜け外交の遠因に歴史教育あり
日本の歴史教科書を見ると、世界の歴史については表面を撫でたように美化して書き、日本の歴史を自虐的に書きます。これは、完全に逆をやってしまっています。世界の歴史を美しく書けば、当然日本外交が甘くなりますし、相手に対して警戒感もなくなります。日本の歴史を美しく書かなければ、この日本の伝統を引き継ごうと誰も思わなくなります。人口減の遠因にもなります。
戦後外交が腰抜け外交、お人よし外交と言われているのは、そういった歴史教科書の書き方の問題もあるのです。
読んでいただき、ありがとうございました。
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