「エリザベス女王が死去されましたね。素朴な疑問ですが、日本であれば崩御を使うと思うのですが、マスコミの報道を見ていると「死去」なんですね」
「崩御、薨去(こうきょ)、卒去などは日本独自のものなので、イギリス王室のご不幸については、そういった言葉を使わないということだと思います」
「世界最初の市民革命の国だという先入観があったので、女王の死去に対して多くのイギリス国民が哀悼の意を捧げている様子をテレビで見て、実は少し驚いているところです」
「確かに市民革命がありましたが、多くのイギリス国民は王室に対して敬慕の念を抱いていると思います」
「在位期間が70年7か月という長さが関係あるのでしょうか?」
「在位期間中にイギリス国民が女王のお人柄に触れて、多くの国民がファンになったという面もあるでしょうね。空母の名前にも使われていますからね。動乱の時代に、王室という言ってみれば国民の心の拠り所があったことを改めて感謝しつつ、別れを惜しんでいるということだと思います」
「日本の皇室とも交流が深いのですね」
「王室がある国がそもそも少ない上に、同じ島国という地理的な条件もあります。そして、革命こそありませんでしたが、日本にも明治維新や各種の動乱はありましたからね」
「境遇が似ている、そんなところから親交が始まったのでしょうか?」
「日英同盟が結ばれたのが1902(明治35)年です。ヨーロッパの中で日本と最初に対等な関係での条約を結んだ国ですが、ロシアを意識しての同盟だったと思います」
「その後すぐに日露戦争が勃発しますものね。ただ、何となく今の情況と似ていますよね」
「そうかもしれませんね。ただ、日英同盟は約20年位で解消してしまうのですが、王室との繋がりは継続します。大正天皇は「剣」をイギリス王室に贈っています。その実物を今の天皇陛下が皇太子の時代にエリザベス女王に見せてもらったそうです」
「陛下が皇太子時代に留学したのは、確かイギリスのオックスフォード大学ですよね」
「大変楽しかったとおっしゃっていますよね。その時、エリザベス女王やチャールズ皇太子が親身になって世話をしてくれたそうです」
「王室や皇室の在り方ということで、いろいろなことを言う人がいますが、現実の政治から一歩離れたところで別の交流ができるメリットがあるということですね」
「国境を挟んで、政治家同士が本音で付き合うことは、大変難しいことなんですね。ただ、王室同士は逆に本音で付き合うことが出来ます。だから、両国関係が重層的になるということです」
「上品なお付き合いが出来るということですね。ここからが本論です ↓なお、表題写真は「読売新聞オンライン」提供です」
イギリス、日本、台湾――同じ「島国」として相通じるものがある
気脈が通じるという言葉がありますが、イギリス、日本、台湾は同じ「島国」として何か分かり合えるような雰囲気を感じます。
イギリスはEUを脱退しました。移民問題が事の発端でしたが、国民投票まで行って脱退を選択したのです。根底においてはヨーロッパ大陸の国々の人とは感覚的に合わないというのがあったのではないかと思っています。
日本に最も近い隣国は韓国ですが、その交流史を見ても分かりますが、この2000年間まともに付き合った時代が殆んどありません。古代の百済の時代と戦後の期間だけです。多分、先人たちは言葉で言い表せない違和感のようなものを感じていたのではないかと思います。
朝鮮半島と台湾は、戦前の日本の植民地です。正確に言うと半島は併合して、台湾は植民地経営でした。併合というのは、日本と同等の統治をするという意味ですので、植民地より「格」が上なのです。ところが、両国の反応は全く正反対と言って良いほど対照的です。台湾は日本の統治を感謝してくれていますが、韓国は恨んでいます。行動の真意が相手に上手く伝わらない国というのが、実際にあるということでしょう。
(「こんなニュースにでくわしたーFC2」/日本と英国)
日英同盟―― 対等な関係で結ばれた軍事同盟
台湾、韓国については別の機会に話をすることにして、日本とイギリスとの両国関係に的を絞りたいと思います。2人の会話で話題になった日英同盟は、全く対等な関係で結ばれた軍事同盟でした。明治政府は不平等条約の解消のために大変苦労しますが、当時の欧米の感覚の中には有色人種への差別感が当たり前のように残っていたのです。
そのような時代において、なぜイギリスは日本と同盟を結んだのか。イギリスが日本に注目するきっかけとなった事件があります。1900年に中国の清で起きた義和団事件です。義和団事件というのは、西洋人とキリスト教に反感をもった「排外主義義和団が勢力を増して各地で外国人を襲い、北京の列国大使館を包囲した」(山川『高校日本史』)事件です。
外国公使館区域には、イギリス、フランス、ロシア、アメリカ、ドイツ、日本など11か国の公使館が開設されており、そこに勤務する外国人925名、一般の居留民として中国人約3000名が義和団の団員に包囲されます。その反乱を鎮めなければいけない立場の清は、逆に義和団の反乱に呼応して列国に宣戦布告をしてしまいます。そのため、大騒ぎに発展してアメリカ、イギリス、ロシア、フランス、ドイツ、オーストリア・ハンガリー、イタリア、日本の8カ国は鎮圧のための兵を派遣します。このどさくさに紛れて、ロシアは満州を軍事占領してしまいます。
義和団に包囲された方は、止む無く籠城戦になります。ただ、区域内の武官や兵士は全部で481人しかいませんでした。その中で一人の日本の軍人が獅子奮迅の活躍をします。柴五郎中佐です。英語、フランス語、中国語に堪能だった彼が地区内の日本軍を率いて戦果を上げます。
籠城戦は結局約2か月に及び、例えば日本兵は1/5が戦死するなど多くの犠牲を出しました。その後イギリスのタイムズは社説を掲載しています――「公使館区域の救出は日本の力によるものと全世界は感謝している。列国が外交団の虐殺とか国旗侮辱をまぬがれえたのは、ひとえに日本のおかげである。日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ。……」。手放しで褒め称えていますが、この時の行動がイギリスのマクドナルド公使の目に留まり、それが日英同盟として結実することになります。ちなみに、日英同盟に対する各国の反応ですが、アメリカ、カナダは反対、オーストラリア、ニュージーランドは賛成でした。
(「ameblo.jp」)
日英は戦い、そしてまた接近をしている
日英同盟はその約20年後に破棄されてしまいます。同盟はもともとロシアを睨んでのものだったのですが、その帝国が革命によって打ち倒されたからです。ソ連となって脅威が消えたと思ったのでしょう。ただ、実際には、今まで以上の脅威が高まることになります。当時は、それが分からなかったのでしょう。
政権が交代しても、その民族のDNAは次世代に受け継がれます。同じような国柄の国家が登場するのです。ソ連が崩壊して、ロシア共和国になりましたが、ウクライナに侵攻をしています。お面の付け替えをしただけで、中身は余り変わっていないということでしょう。
ところで日本のその後です。日英同盟廃棄後、5.15事件、2.26事件などを経て軍部が実権を握ります。そして、ナチスドイツとムッソリーニ率いるファシスト党のイタリアに接近をします。類は友を呼ぶとはよく言ったもので、独裁3兄弟が勢揃いをして、やがて日本は米英と衝突し、太平洋戦争へと突入することになります。日本は軍事独裁になった時点から、「方向音痴」という独裁病になったようです。
敗戦を挟んで、日英両国の間において和解がなされ、今またロシアや中国という国を意識して、お互いが接近しようとしています。歴史はこうやって繰り返すのでしょう。
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