
「「少子化・人口減という第二の敗戦」という本を読んでみて「おやっ」と思うのは、歴史的な記述が多い点です」

「扱っている時代は古代飛鳥の時代と明治維新以降です」

「古代飛鳥の時代では、聖徳太子から天武天皇までを結構詳しく扱っていますよね」

「その100年間で「日本のかたち」つまりアイデンティティが確立します。先人たちがこの国をどのような国として認識し、どのように治めようとしたのかを明らかにしたいと思ったからです」

「会社でも創業の時に、どういう会社を目指すのかを考えますからね」

「人も会社も国も、それぞれの特徴を生かして独自の歩みをするべき存在です。日本の置かれた自然環境や社会状況を踏まえて、先人たちが苦労して日本の基礎作りをしました。まずはそれを知るのが大事ということです」

「創業者の精神から学ぼうということですね」

「特に天武天皇の時代に日本という国号、天皇の称号が定まったと見ています。それをアピールするために編纂されたのが『日本書紀』です。伊勢神宮の式年遷宮もこの期に始まっています。そこで「日本のかたち」が作られているのですが、信じられないことに歴史学会はそれを認めていません」

「それはどうしてですか?」

「明治期に藩閥政府の井上馨が中心になって東京帝大に「維新史料編纂局」を作ります。これが昭和になって東京大学史料編纂所に改組され、そこから「維新中心史観」の歴史が学会や学校教育を通して広がることになるのですが、それは「大化の改新―明治維新」を主軸とする歴史なのです」

「ここからが本論です ↓」
少子化という「重病」をどう診るか—因子の総点検が必要です
日本の少子化はある意味、異常です。2003年の出生数は112万ですが、その頃から減り方に加速度がつき始めます。2016年に100万人を切り、それからわずか8年で70万人を割ってしまいました。この減少のスピードは、通常の社会変化では説明しきれないレベルに達しています。私はこの状況を、悪性腫瘍が転移をし始めているような状態と表現をしています。人間の身体も癌が進行すると、急激に体重が減少します。人間も国も組織的構造物という点ではまったく同じなので、同様に考えることが出来るのです。
重病だと思われる患者に対して、精密検査をします。本人の病歴、手術歴、アレルギーはもとより親や親類縁者の病歴、手術歴まで聞くことがあります。どのような「因子」を本人が持っているかを調べるためです。今回の書で、日本の歴史をかなり深く堀り下げたのは、日本が持っている「因子」を探り、日本の元々のかたちを知ってもらうためです。日本は本来どのような国としてあるべきなのか、それを先人はどのように考え、制度としてどのように落とし込んだのか。それらを明らかにする必要があると考えたのです。
そして歴史を紐解く中で見えてきたのは、明治以降の日本が、本来の日本が歩むべき道とは異なる方向へ進んでいた可能性でした。人間も自分の身体に合っていない生活を続けていれば変調をきたし、やがては病となります。アルコールを受け付けない体質なのに、無理に呑み続けていれば肝機能を壊します。国も同様です。本来の在り方とは異なる道を無理に進んだ結果、現在のような深刻な「病状」に至っているのではないかと考えています。

(「株式会社ROKUMEI」)
日本の「体質」を見誤った近代化—地理が示す本来のかたち
ところで、「日本」本来の在り方とは、一体何でしょうか。この点も、人間に置き換えて考えてみたいと思います。例えば、「スポーツで勝負をしたい」という本人の希望だけで進路を決めるのではなく、自分の体格、運動神経・反射神経、そして当該スポーツに対する家族の同意など、総合的に判断する必要があります。同様に、国家もその「体質」を見極める必要があります。その重要な要素の一つが地理的条件です
日本は非常に複雑な海岸線を持ち、太平洋と日本海に囲まれた典型的な海洋国家です。森林の面積が国土の約2/3を占める森林大国でもあります。この割合は、北欧のフィンランドやスウェーデンと比べても遜色がありません。さらに、列島の中央を3000メートル級の山脈が連なり、川は急流で短く、中国の黄河や長江のような大河がありません。
中央集権制が上手く機能するためには、人と物資さらには情報(指令)が中央から地方へ素早く運ばれる必要があります。鉄道のない時代です。大河が必要条件ですが、日本の川は運ぶどころか運搬を遮断する役割しかなかったのです。こうした地理的条件を有しているのに、明治になって他国の成功モデルである中央集権制を採用して、西洋の近代化路線を歩もうとしたのです。自分のことをきちんと分析せずに、大谷選手に憧れて野球選手を目指すようなものです。
さらに島国なので、孤立をしないように隣国とは良好な関係を築く必要がありました。文明が発達すればするほど、自給自足は不可能となります。近隣との交易、さらには友好的な外交が何よりも重要になってきます。明治の藩閥政府は、これとは真逆のことをしたのです。

(「公益財団法人 中曽根康弘世界平和研究所」)
歴史が示すもう一つの選択肢—日本は本来、分権国家であった
歴史を調べたのは、日本の元々のかたち、つまり日本の国家構造を検証する必要があるためです。
645年の大化の改新が日本における中央集権制の導入の試みでした。「公地公民」を掲げ、社会主義的な政策が天智天皇の時世に行われたのですが、中央の貴族層を中心に大きな反発を呼びました。考えてみれば当然だと思います。先祖伝来の土地をすべて取り上げてしまおうという政策です。「気が狂ったのではないか」と思った貴族・豪族もいたでしょう。古人大兄の反乱、有間皇子の変、右大臣・石川麻呂の反乱が記録に残っています。名前を見れば分かるように、中央の有力貴族・豪族からの反発が強かったことが分かります。大地主だったからです。
天智天皇の在位は10年程度だったということもあり、中央集権の改革は途中で頓挫しています。そして、天智の死後に息子の大友皇子と大海人皇子(天武天皇)が戦っていますが、短期間のうちに地方の豪族が一斉に大海人の側に集結しています。そういった状況を見ると、天智の中央集権制に対して、相当な反発があったことが分かります。そして壬申の乱(672年)に勝利した大海人皇子が行った施策は地方分権政治だったのです。それを律令制度に落とし込み、以来、1100年以上にわたって日本は地方分権国家として日本的な文化・芸術を世に送り出すことになります。

(「刀剣ワールド桑名・多度別館」)
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