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少子高齢化問題を探る ―― 対策は歴史から学ぶべし / 戦前の人口爆発にヒントが隠れている

女性

「前回の話の中で、人間だけが子殺しと戦争をすると言われましたよね。帰りの電車の中で考え込んでしまいました」

「あくまでも、私の仮説ですからね」

女性

「だけど結構、私にとって説得的だったのです。そう言われれば、人間は戦争ばかりしていますものね。日本も例外ではありませんものね」

「平成は戦争がなかったのですが、明治、大正、昭和と戦争、戦争の連続です」

女性

「戦争が終わって2回のベビーブーム。人口は減ることはないだろうと思っていたら人口減社会に入ってしまいました」

「そうですね。時代の流れの早さを感じますね」

女性

「ところで、岸田首相が「異次元の少子化対策」という言葉を使って、内閣の本気度を示しながら3本柱の政策を提案しましたが、どう考えていますか」

「異次元と言うので、従来とは全く違った視点からの政策提起かなと思ったのですが、変わっていませんでしたね。少し拍子抜けしました」

女性

「たまたま5日のニッポン放送の辛坊さんの「そこまで言うか」の番組を見ていたのですが、彼は岸田提案を批判しつつ、フランスで導入されている「N分N乗方式」の導入を提案していました」

「それは、どういうものですか?」

女性

「簡単に言うと日本は現在所得税などは個人を対象にしていますよね。それを家族単位で取るようにするというものです。家族が増えれば増える程、課税額が割安になるという仕組みです」

「一種の利益誘導ですね。ただ、問題の本質はそこではないと思います。原因をきちんと分析して、そこに焦点を当てた対策をしないと空振りになります」

女性

「利益誘導で思い出したのですが、東京都は少子化対策として子供1人当たり5000円を支給するようです」

「それも少子化対策にはなりません。未婚男女が増えている。そして、堕胎数が年間約18万件と相変わらず多い。それらに焦点を当てた政策提言をしないとダメだと思います」

女性

「その辺りは本論でお願いします ↓ 表題イラストは飯田市ホームページからのものです」

 過去に出された「少子化社会対策大綱」の総括を

人口減少は国家にとって、ゆるやかな有事です。特に日本の場合は、2回のベビーブームがあり、最初のベビーブームの人たちが後期高齢者を迎える年齢になってきました。第一次ベビーブームの時は、年間約270万人、第二次の時は約210万人です。そして令和4年は出生数が80万人を割って77万人位だろうと言われています。

そのため少子化対策を推進するため関係省庁による新たな会議を設置し、首相が3月末を目途に政策強化のたたき台をまとめるよう小倉こども政策担当大臣に指示をしたとのことです。小倉大臣は学識経験者、子育て当事者、若者をはじめとする関係者の意見を聞きながら省庁横断の会議を開催するとのことです。

人口減は2005年から始まっています。その対策ということで少子化社会対策基本法(2003年)を制定し、その規定に基づいて「少子化社会対策大綱」を3回(2004、2010、2014)策定しています。その中で「少子化危機は、克服できる課題である」として「結婚、妊娠、子供・子育てに温かい社会の実現をめざす」と言っています。対策の骨子は、子育て支援、男女の働き方改革、教育です。その方針で進めたことに対する効果、つまり総括を踏まえた上で考えなければ、あの時の「対策大綱」は何だったのかという話になります。そして、また同じような政策が並べられ、結局上手くいかないのではないかと思っています。

(「保育士試験対策クイズ」より)

 日本の人口動態を探る

少子化問題を考える場合は、日本の家族制度と人口動態を歴史的に見て、科学的に分析する必要があります。そうでないと、すべてが思い付き、外国の猿真似政策になります。日本独自の結婚に対する見方や考え方、時代の流れがあります。それらを踏まえて対策を練らなければピントがずれるだけです。ピントがずれた政策を出しても効果は上がりません。

人口問題を考えるためには、この2000年間の人口動態を知る必要があります。マクロの視点を持つためです(下のグラフ参照)。注目したいのは、人口が急激に増えた局面です。江戸の終わりから明治・大正にかけて増えています。享保の改革(8代将軍)期が約3100万人、明治維新3300万人、終戦(1945)7200万人です。何故なのかを分析します。何かヒントが隠されているかもしれないからです。

江戸は身分制の封建時代ですが、天下泰平の時代です。生産力も上がります。そして、江戸中期以降は、農村部では「皆婚」に近い状態が生まれます。それ以前は、身分が低い者は結婚出来なかったのですが、そういう人たちも含めて「皆婚」が幕末期にほぼ全国的に達成します。そして、財産を子孫に受け継いでいくという直系家族の考え方が江戸時代には農民レベルにも広く浸透することになります。

(「内閣府」)

 戦前において人口爆発があった

明治維新を境に四民平等の時代となり、政府は西洋に追いつけ追い越せということで近代化政策を断行します。日清戦争の後に産業革命が起こり、生産力の飛躍的拡大がなされ、庶民の生活水準も向上します。「皆婚」という基盤と家系の存続という意識もあり、飛躍的に人口が増大します。1920(大正9)年が戦前のピークですが、この年の出生数は200万人を超えています。戦後の第二次ベビーブーム期と同じ位の出生数があったのです。

何故、江戸時代は微増で明治・大正期に人口爆発があったのか。江戸期は三大飢饉があったこと、農村では「間引き」が行われていたこと、身分制社会のため結婚できない層があったことが主な原因です。明治・大正期にそれらの負の要因がすべて無くなったので、人口爆発が起きたのです。

その人口増を地域別に細かく調べていきます。そうすると、都市部では余り増えていないことが分かります。江戸時代中期以降、江戸は人口100万人を誇る大都市ですが、未婚率が極めて高いのです。南和男「幕府江戸社会の研究」(吉川弘文館、1978)によると、男性は約半分が未婚、女性は地域によってかなりバラつきがあるのですが、少ない地域は10%、多い地域は70%位が未婚というデータが残っています人口が少ない農村部は男女とも100%に近い婚姻率なのに、江戸は独身者が多くいたのは何故なのか。これは、見合い文化が原因だろうと見ています

農村部は地域的に人間関係が固く結ばれています。情報のネットワークもあったことでしょうし、狭い地域社会で暮らしていれば、お互い顔なじみになりますし、婚姻を世話した人がいたと思われます。一方、江戸は商業も発達し、それこそ雑多な職種の人間が集まる町です。地域が極めて流動的なため、農村のように婚姻を世話する人も少なかったのではないかと思われます。

実はその現象は現代の日本でも現れています。東京の出生率は低く、沖縄が一番高いのです。これは沖縄の方が地域における人間関係の基盤が出来ているからでしょう。婚姻率を高めるためには、そういった基盤づくりに目を向ける必要があるのです。ちょうど作物をよく実らせようとする場合、土づくりから始めます。その辺りの道端に種を撒いても枯れてしまうだけです。それと同じ理屈です。政府がやろうとしていることは、道端に種を撒こうとしているようなものです。いくら撒いても芽は出ません。

(「毎日新聞」)

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