「資本論に関する書が、この間いろいろ出版されています。昨日ブログで紹介した人新世の資本論」は、そういった一つの流れに乗って出てきた本です」
「他には、どういったものがあるのですか?」
「2015年に「希望の資本論」というタイトルで池上彰氏と佐藤優氏の対談本がでます。2020年には、日本共産党が『資本論』の新版を出しています」
「その原因をどのように考えていますか?」
「ピケティが『21世紀の資本』を2014年に出しますが、その発想が『資本論』的なのです。それが学問的導火線の役割を果たしたというのが私の分析です」
「ピケティについては、このブログでもとりあげていますので、関心がある方はそちらも読んでいただければと思います。そのピケティは「資本論」の影響を受けたと言っているのですか?」
「ピケティは「資本論」からの影響を受けていないと言っています。これは池上氏が著書(「希望の資本論」)の中で明らかにしています」
「先程の導火線云々というのは、あくまでもピケティの書から「資本論」を連想したということですね」
「ピケティは資本主義の進展とともに、貧富の格差が進むことをデータに基づいて書いたのです(5/14のブログを参照ください)。それはまさにマルクスが言っていた労働者の窮乏論と同じだったのです。マルクスの予言は当たったということで、資本論にまた人々の関心が向いたということだと思います」
「ただ、私も「資本論」をパラパラとめくったことがありますが結構読み応えがある書ですよね」
「私にとっては『資本論』は斜め読みが出来ない数少ない書なんです」
「それだけ難解な書ということですか?」
「すらすらと読めるような書でないことは確かです。超訳『資本論』とか池上氏の『高校生から分かる資本論』という解説本が出ていますので、それから読まれたらどうかと思います。ただ、マルクスが例として出している商品は1次産品ですし、工場労働者を想定して記述がなされています。そんなところから、現代と合わない部分もあるのです」
「マルクスが活躍した時代は、日本では江戸の終わりから明治の初めですものね。ここからが本論です」
目次
資本主義 対 社会主義(共産主義)という図式は成り立たない
池上彰氏と佐藤優氏の対談本『希望の資本論』(2015年)という書があります。私は密かにこの書が齋藤氏が書いた『人新世の資本論』の橋渡しをしたのではないかと思っています。というのは、『人新世の資本論』の本の裏側の一番上の位置に佐藤優氏の「齋藤はピケティを超えた。これぞ、新の「21世紀の『資本論』である」というコメントが掲載されています。普通は、「斎藤は」と、呼び捨てにはしません。何らかの人的繋がりがあるのでしょう。『文芸春秋』(2021年4月号)には、齋藤氏と池上彰氏との対談が掲載されています。やはり、人的な繋がりがあったのでしょう。
それはともかくとして、今日は『希望の資本論』の記述を紹介しながら論を進めたいと思います。
その書の中に、こういう言葉があります――「ソ連が崩壊し資本主義が勝利したとなって、もう革命がおこる心配がなくなった。そこで資本主義のやり方でいいんだと言っているうちに、社会主義革命が起こる前の、恐慌がひっきりなしに起こり、悲惨な労働状況が蔓延していた」(池上彰×佐藤優『希望の資本論』朝日新聞出版、2015年/11ページ)。
上記の言葉は池上氏の言葉ですが、マルクス主義的な世界観をもっていることが分かります。資本主義と社会主義(共産主義)という対立構造の中で社会を見るのは階級史観(唯物史観)ですが、昨日のブログでも言いましたように、これは成り立ちません。
(「クリプトピックスわかりやすい経済学」)
経済活動は人間の自然な活動、そのため当然「波」が起こる
資本主義というのは、自由競争市場を前提とした経済システムです。競争というのは、価格競争のことです。高く売りたいと思っている供給者と安く買いたいと思っている需要者同士の思いと行動が市場でぶつかって価格が形成されます。その価格は日々変動し、生産量日々刻々と変化します。そういう中で、自然に様々な波が発生します。価格の波、生産量の波が総合して景気の波として表されたりします。
人間は同じモノや現象を見ても違うことを考える動物ですが、こういった状況を見た時に、自由主義者は自然の動きと考えるのですが、共産主義者は、「波」を無くそうと考えるのです。何故、無くそうとするかと言えば、諸悪の根源と捉えるからです。
ただ、人間が生きて経済活動をすることは、極めて自然なことです。人類の歴史が始まったとほぼ同時期に何らかの経済活動が始まっているからです。海や湖には波があります。人間の脳波や脈も波として表れます。生きているものは、すべて波動として表れます。これはミクロの世界の物質が波形を基本として存在するからです。光も波ですし、電磁波、電波、すべて波です。この波を人間の力で止めてしまおうと考えるのが、社会主義(共産主義)の発想です。
止まるはずがないと自由主義者は考え、止めることは経済にとっての「死」と自由主義者は考えるのですが、社会主義(共産主義)は波を止めた後、そこから新しい息吹が生まれると言うのです。人工的に止めるのですから、当然それは権力の力が必要です。権力を使っての革命ということに必然的に行き着いてしまうということです。
ただ、実際に止めてみたらソ連は崩壊しました。北朝鮮も一生懸命止めているので、経済は発展しません。政治権力の力で、どこまで持ちこたえることが出来るかというレベルだと思います。そういう意味では、壮大な実験を行っているとも言えるのです。
(「AI TRUST」)
格差がつくのは当たり前、その是正は政治の課題だが、そこに幸せのタネがある
「恐慌がひっきりなしに起こり、悲惨な労働状況」と『希望の資本論』は指摘します。これが資本主義の限界なので、これを改善するためには、資本主義であってはいけないと考えるのが共産主義者です。恐慌と言うのは、例えて言えば津波のことです。突如現れて、経済活動を停止させてしまいます。日常普段的に大波、小波いろいろ現れます。波乗りが上手い人と下手な人がいるように、波に乗れず沈んで溺れる人もいます。
その溺れたことに対する原因と対策を考えるのですが、そこでまた見解が別れます。波そのものを無くせば、皆んなが穏やかな海で平和に泳ぐことができると考えるのが共産主義者です。海を人口プールにすれば良いという発想です。
そんなことは夢物語で出来る訳がない、海に波はつきものなので、それを前提にして考えるべきと自由主義者は考えます。津波があったとしても、被害を受けない高台に避難するとか、被害に遭った人や溺れた人に対しては、政治の力で救済しようと考えます。また、波乗りが上手くない人に対しては、教育によって上手く乗れるようにしてあげることを考えます。
(「WAVAL」)
経済学はもっぱら後解釈しかできず、未来予測は不可能
政治経済という科目が高校の普通科にあります。そんなことから、同じように考える人が多いのですが、政治学(法学)と経済学は全く別な学問体系ですし、考え方も違います。それを理解しないまま、用語を区別しないで混ぜて使う方が多いのですが、そのことを分かって頂こうと思い、簡単な表を作ってみました。後解釈というのは、現象の後追いということです。つまり、経済学は専らすでに起こってしまったこと、あるいは現在進行形のことについて、こうであろうということしか論じることができないということです。政治学(法学)は権力をメインに考えながら、この制度を採用すればこうなると、ある程度の未来予測ができますし、権力といえども人の力なので、完全制御をできると考えます。
未来予測 | 後解釈 | 完全制御 | |
政治学(法学) | 〇 | 〇 | 〇 |
経済学 | × | 〇 | × |
経済現象は自然現象と同じようなものと考えます。人間の活動なのに何故なのかと思うかもしれませんが、人間は自然の中で生きていますし、人類の発生とほぼ同時期に経済活動をしていますので、自然活動と捉えた方が合理的です。そして、実際に経済の予測はできますが、確定したことは殆ど分かりません。大恐慌が仮に起きたとして、その前日ですら予測することはできません。予測が出来ないものに対して、コントロールすることなど出来ません。波を無くして、巨大な人口プールで世界の人々が楽しく日光浴という世界は夢だということが分かると思います。
ただ、そういった刺激が全くない世界で生きていても、幸せ感を味わえないだろうと思います。鳥かごの鳥は幸せなのか、人間もそのような環境で幸せ感を感じることが出来るのでしょうか。人間は非常に複雑な生き物なので、単純に考えることはできないのではないかと思っています。
読んでいただき、ありがとうございました。
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