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話題の書『人新世の「資本論」』を読む――資本主義に対する異様な程の敵愾心 / 21世紀版「共産主義読本」

女性

「新書にしては分厚い本ですね」

「これが今話題の『人新世の資本論』という本です」

女性

「表紙に著者の近影が載っていますが、こういうのは珍しいですよね」

「そういうところに目がすぐ行くところは、さすがは女性ですね」

女性

「2021新書大賞第1位と書かれていますね。ところで「人新世(ひとしんせい)」というのは、どういう意味ですか?」

「私も意味が分からなかったのですが、これはノーベル化学賞受賞者のハウル・クルッツェンという方が、地質学的に地球は新たな年代に入ったということで付けたネーミングだそうです」

女性

「分かりました。洪積世とか沖積世という言い方がありますよね。その次の新しい時代という意味なんですね」

「そうです。そして、その人新世の現代において環境危機の時代になると言っているのです」

女性

「それと資本論とどう繋がるのですか?」

「その辺りは著者の斎藤氏の問題意識なんですが、環境危機を引き起こしたのは資本主義だという認識です」

女性

「資本主義をなくせ、打倒、そしてマルクスの「資本論」ということですか ?」

「およその流れは、そういうことです。資本主義を誤って捉えた上で、すべて資本主義が悪いという一面的な立場から書かれています」

女性

「ここからが本論です ↓」

 

 経済的用語と政治的用語は峻別して考える必要あり

 斎藤氏の文章は、経済的用語と政治的用語が混在し、きちんと峻別されていないという問題があります。ただ、これは共産主義的な立場に立って物事を見る方に共通しているところです。資本主義というのは、経済的用語ですが、共産主義(コミュニズム)は政治的用語であり、思想的言葉です。

資本主義は現実に存在していますが、共産主義は現実に存在せず、観念的なものに過ぎません。さらに、経済的用語には「色」は付いていないので、価値判断をするのは間違っています。逆に、政治的用語には「色」がついているので、それについて価値判断をし、批判することは構いません。そして、次元の違う両者を比較すること自体、間違っています

「色」というのが分かりにくいかもしれませんが、例えば、お金自体は「色」は付いておらず、使い方によって良くもなるし、悪くもなります。福祉団体に寄付をすれば良いお金になるでしょうし、麻薬を買うために使えば悪い使い方となります。つまり、良いお金と悪いお金があらかじめ存在する訳ではない、「色」と言うのはそういうことです。

(「Goo ブログ」)

  資本主義的な市場経済は人類の叡智が生み出した一つのシステム

彼の著書の中に、その資本主義という言葉が何回も出てきますが、多くは政治的用語として共産主義(コミュニズム)と対をなす言葉として使われています。例えば、こういう一文があります。「豊かさをもたらすのは資本主義なのか、コミュニズムなのか」(斎藤幸平『人新世の資本論』集英社新書、2020年/234ページ)。この命題の立て方を見ると、資本主義を私有財産制度の意味をもたせて、そういったことを認める考え方ということで政治的用語として使っているのかもしれません。とにかく、定義が書かれていないので、推測するしかないのです。

佐伯啓思氏が『さらば、資本主義』(新潮新書、2015年)の中で「…資本主義とは何なのでしょうか。通常、それは、生産手段が私有化された生産体制と定義されてきました。マルクス主義者はそういった。これは、生産手段が公有もしくは国有である社会主義と対比して定義されていたからです」(185ページ)と述べていますので、この定義を使うことにします。

ただ、その場合の資本主義というのは、人間が経済活動を営む中で編み出した一つの態様です。人は原始の時代から何らかの経済活動を営んでいたと考えられています。貝殻や石が現代のお金代わりに使われていたことが分かっているからです。人間と他の動物の違いはいろいろありますが、経済活動をするのは人間だけです。つまり、類人猿からホモ・サピエンスになった途端に、将来のために食糧を蓄えたり、道具を作ったり、作物を交換したりという経済活動が始まったのです。

それから時代が経ち、現代に近づくにつれ、人はお金を集めて工場を建て機械を導入することによって大量の製品を作り出すことを行い始めます。これが資本主義経済の始まりとして教科書に説明されていることです。

この歴史的な流れを見る限り、資本主義は人々の必要性から生まれたシステムであり、資本主義経済によって大量の製品が市場を通して人々に行きわたることにより、生活が豊かになったことは確かだと思います。そして大量の製品が生産されるようになれば、それが売買される市場が形成されることになります。そんなことから、資本主義は自由主義市場経済と言葉を置き換えて説明されることもあります。

そんなことから「アメリカのオーソドックスな経済学には、実は資本主義という概念はほとんどありません。……市場経済なのです。あるいは市場競争といった概念なのです」(佐伯啓思、前掲書185ページ)

(「電脳経済学v8」)

そして、これらは人類がその叡智によって生み出した一つのシステムなので、色眼鏡で見るものではありませんし、ましてや打倒の対象にはなりません。従って、敵視するのは基本的に間違っていると考えます。つまり、一つのシステムである資本主義を上手く使えれば豊かな社会を実現できますし、使えなければそれなりの結果しか出ないということです。

 人間の生活が続く限り、資本主義的市場経済は永遠に続く

齋藤氏の問題意識は多分に環境問題にあります。「資本主義による収奪の対象は周辺部の労働力だけでなく、地球環境全体なのだ。……人間を資本蓄積のための道具として扱う資本主義は、自然もまた単なる掠奪の対象とみなす。このことが本書の基本的主張のひとつをなす」(31-32ページ)という一文がありますが、環境問題や人間を道具として扱うという人権問題は政治の問題なので、資本主義に原因を求めても仕方がないことです。地球温暖化の問題がグローバルな問題として、国連で話し合いをなされているのは、そういうことです。ただ、企業人の中には、環境ビジネスということで別の角度からそれを捉え、解決しようとしている動きもあります。

人間を資本蓄積のための道具として扱う資本主義」(32ページ)という捉え方は、19世紀のマルクスの時代ならいざ知らず、現代は人権面から様々な法制度が政治的に整備され改善されています。マルクスの生きた時代は、資本を持つ者と持たざる者、それは乗り越えることが不可能なほどの厚い壁があったため、「資本家階級」、「労働省階級」という言葉を使ったのです。「階級」という言葉は、例えば武士階級とか農民階級というように、本来的に封建的身分制度の時代に使う言葉です。その位、固定的な立場という捉え方だったのでしょう。その上で、「労働省階級」は自分たちの生活を守るために、目の前の「資本家階級」と闘うしかないと言ったのです。

ただ、今や資本金0円でも起業できる時代です。「道具として扱う」ことを感じたならば、パワハラと言って裁判に訴えることも、転職、さらには自分で起業するといったことも自由にできます。あるいは、最近起きている動きですが、協同労働ということで労働者が共同出資して会社を立ち上げ、自分たちで会社を運営するという方法もあるのです。別に目の前の経営者と組合をつくって正面からぶつかる必要はないのです。むしろ、今は同じ経営体に属する者として、互いに手を携えて叡智を出し合って難局を乗り越えていく時代です。

(「西日本新聞」)

人が人間である限り生産活動を止めることはありません。ということは、市場経済は人類が存続している間は、続くということですし、それを資本主義と呼ぶならば人類とともに続くということです。そして、それらは一つのシステムなので不具合があれば、その原因を探って修復すれば良いだけの話です。また、そのシステムが稼働していたことによって起きる弊害、例えば環境問題、人権問題、労働問題といったことが今後もし起きたならば、法律を作ったりして政治的に解決するということです。ゼロ百の発想で、何かマイナス要素があれば元からすべて破壊してしまうのではなく、完全なシステムなどないので、時代に合わせて補修して使っていくということです。

資本主義は打倒すべき対象でもありませんし、共産主義の対極において考える概念でもありません

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