「先日の土曜日、孫の小学校の運動会に行きましたよ」
「あら、そうでしたか。土曜日は良い天気で、暑くて結構大変だったでしょ」
「午前中に全て終わらせる計画だったので、開始がとにかくいつもより早めでしたね」
「じゃあ、逆に涼しくて良かったのですね。久しぶりでしょ。小学校の運動会は。いかがでしたか?」
「国歌斉唱、国旗掲揚をしなかったので、そのことを小学校の元教員に聞いてみたら、式ではないのでしないとのこと。私の子供の頃は、君が代を歌ってましたけどね」
「私が小学校の頃も運動会では、君が代を歌っていないと思います」
「式と言うと、始業式とか終業式ですか?」
「いや、入学式と卒業式くらいのものでしょう。来賓の方が来るので、それに合わせて国歌斉唱をするのだと思っていました」
「成る程、それで疑問が解決しました。私が公民の教師をしている時、必ず君が代の歌詞を書かせる問題を出しています。もちろん、予告なしですよ。どの位の生徒が正解だったと思いますか?」
「それは、全部正確な漢字とひらがなで書かないとダメなんですか?」
「一応、中学3年生ですからね。ただ、漢字が分からない場合で、その単語が漢字と分かっていれば「いわお」でも良しとしました」
「あら、優しいですね。であれば、8割位の生徒が正解するんじゃあないでしょうか?」
「当初は、そう思っていました。しかも、私の学校は毎日国旗を掲げ、運動会でも君が代を歌わせているんですよ。サービス問題のつもりで出したのです。ところが、完全正解は大体いつも3割でした」
「そんなに低いのですか?!」
「傑作なのを紹介すると、「岩音鳴りて」とか「岩男となりて」というものです」
「「岩男」は受けますよね。意味が全く分かっていないということですね」
「さらに驚いたのは、テスト返却の時に、漢字とその意味を解説すると、そういう話は今まで聞いたことがなかったという生徒が結構いたのです」
「それも凄い話ですね。ここからが本論です ↓」
続発する教員のわいせつ犯罪
インターネットのニュース(5/31日)です――「兵庫県教育委員会は31日、電車内で女性を盗撮したなどとして、尼崎市の中学校の男性教諭を懲戒免職処分としました。……懲戒免職処分となったのは、尼崎市立南武庫之荘中学校に勤める24歳の男性教諭です。 県の教育委員会によりますと、男性教諭は2022年2月、JRの電車内や、駅のエスカレーターで、女性のスカートの中をスマートフォンで盗撮したということです。 その後、男性教諭は、大阪府の迷惑防止条例違反の疑いで逮捕されました」
最近は、このような教員犯罪が連日のように報道されるようになりました。かつては「3歩下がって師の影踏まず」と教えられていましたが、師の影を見たら怪しい影と思えと言われてもおかしくないような時代になっています。
一体、何が起こっているのでしょうか。
(「産経ニュース」)
原因あるところに、結果は必ずある
簡単に言えば、戦後の教員養成が非常に安易なものとして制度設計されたということです。すべての原因はそこにあります。
戦後の教員養成は「開放性」と言って、どの学部の出身者でも、教職課程の単位を取得すれば教員免許を得られる仕組みにしたのです。
戦前は師範制度が導入され、師範学校を卒業しなければ教員免許を授与されることはありませんでした。つまり、師範学校に入るか、入らないかが教師になるかどうかの大きな選択の分かれ目としてあったのです。師範学校は授業料が無償だったため、経済的に余裕がないけれど、優秀な頭脳の持ち主であれば師範学校に入学できたのです。そして、彼らがそういった国の意気を恩に感じ、現場で献身的に子どもたちのために働いたのです。今の日本の教員が身の回りのことから、勉強、部活動まで何から何まで面倒を見るという世界でも珍しいと言われているスタイルはこうして生まれたものなのです。今、部活動を地域に委託するという話が出ています。教員の負担軽減という側面からしか話題にしていませんが、何故今まではそうだったのかということや、部活動は教育活動なのかどうなのかと言った原点に戻った議論をする必要があると思っています。
戦後に教員養成が「開放性」になりましたが、教員の質が保持できれば問題はなかったのです。戦後しばらくは大学進学者が少なかったこともありましたし、今までの蓄積が現場にもありました。そのため、大きな破綻もなく学校教育が保持されていました。それどころか、経済成長期などは、日本の教育は素晴らしいと海外から高い評価を得ていた位でした。
(「沖縄師範学校」)
教員養成の制度設計を考え直す時期
どの時代にも普遍的に通用する法制度などありません。20世紀の終わり頃から、その綻(ほころ)びが出始めます。
大学進学者が増え、それに合わせるかのように大学が創設されるようになります。当然、質の低下という事態が起きることになります。一言で言えば、粗製乱造になってきたのです。これでは、子供たちの学力も上がらないというか、上げられなくなるでしょう。
「教育は教師なり」という言葉があります。ある意味、当たり前の言葉です。名選手の陰に名コーチあり、つまりその人の能力がどこにあり、どのように引き上げるかを知っている名伯楽がいなければ選手も育ちません。子供の教育についても、同じ理屈が成り立ちます。
北欧の国が、人口が少なく厳しい自然条件と教育環境の中で高いパフォーマンスを上げているのは、教師の質が高いからです。教員養成からきちんとしたシステムを組んで、高い実力と崇高な使命感を持った教員を丁寧に養成しているからです。彼らは、次世代の子供たちをきちんと育てなければ、国そのものが無くなってしまうかもしれないという危機感・切迫感を持っているからです。日本には、残念ながらそういった感覚が教育関係者に全くと言って良いほど見当たりません。
人は崇高な目標を掲げることができないと、本能に従った行動を取り始めます。ハレンチ教員が多くなったのは、そのためです。手間暇を掛けるという言葉があります。日本の教員養成は何の思いも考えも込められていません。教員免許は誰でも取れるようになっていますし、就職試験の倍率は、東京都の小学校は現在1.1倍くらいです。要するに、希望すれば誰でも教員になれるという状況があります。
これではプライドをもって仕事に臨むことはできないでしょう。ハレンチ教員が増える土壌がこうして作られてしまっているのです。
(「INDUSTRY COーCREATION」)
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