「『学校だより』をいただいたのですが、その中に「今年度から、学校運営協議会によるコミュニティ・スクールになります」。そして、「地域との連携協働を一層強化し、……」と書かれてありますが、今一歩意味がよく分からないのですが……」
「コミュニティ・スクールはここ数年文科省が推し進めてきた一つの方向性なんです。そちらの学校も、そういう方向で行きますという連絡です」
「PTA活動が余り盛り上がらなかったので、今度は地域の人たちを巻き込んでということでしょうか?」
「PTAは戦後導入されたシステムですが、それはそれで意義がありました。その上に立って、さらに地域に根差した教育を地域の人たちと創っていくということだと思います」
「このお便りに学校運営協議会委員ということで、7名の方の名前が載っています。ただ、どういう方たちなのか、よく分からないのですが、どこかで紹介があるのでしょうか?」
「その辺りはどうでしょうか。学校でそれぞれ判断することだと思います」
「運営協議会委員の方の立場は何なのでしょうか?」
「一応、身分としては特別職の地方公務員ということになります」
「ということは、有給ですか?」
「無給ということはないと思います。何らかのお手当を支払うということだと思います。ただ、その辺りについては、余り今まで話題に出たことがありませんよね」
「日本人は、余りそういった身分とか、お手当のことを気にしないところがありますよね」
「そうですね、確かに。ただ、公立の小中高がここに来て、大きく舵を切ろうとしていることは確かです」
「舵を切る方向は正しいのですか? 間違っているのですか?」
「単刀直入に聞かれると、戸惑ってしまいますが、その判断が難しいなと思っているところです」
「正しさ半分、誤り半分という感じでしょうか。正しいというのは、どういった点ですか?」
「地域に根差した学校というのが、本来の学校のあるべき姿なので、それに添っているということで正しいということです」
「それにも関わらず、誤り半分というのは何でしょうか」
「日本は文科省を頂点とした中央集権的な教育体制をとっている国なのに、どうして原理的に真逆のコミュニティー・スクールを提唱するのかということなんです」
「要するに、言っていることと、やっていることが違うということですか?」
「ここからが本論です ↓」
コミュニティー・スクールの起源
コミュニティ・スクールというのは、保護者や地域の住民の教育意思が学校運営に反映された学校のことで、もともとは1930年代のアメリカで起きた考え方です。それが、戦後の日本に「地域社会学校」というかたちで持ち込まれたもの、というのが一般的な説明です。そこには、プラグマティズムの立場から民主主義社会に適応した学校教育の改革を提唱したデューイ(1859-1952)の影響が多分に見受けられると思います。
「学校とは暗記と試験にあけくれる受動的な学習の場ではなく、子供たちが自発的な社会生活を営む『小社会』でなければならない」とデューイは言います。哲学者と言われる人の中で、最も教育と教育のシステムに関心をもったのがデューイだと思います。社会の改造、民主的な社会の実現、それを目標に立てる時、ともすると上からの改革を考えがちです。デューイは社会は一人ひとりの人間によって構成されているので、人間の改造なくして、社会の改良はあり得ない。そんな問題意識から、教育の在り方、役割に着目したのです。彼の教育哲学は、戦後の日本教育界に影響を与えることになります。
中央集権的教育行政を維持しつつ、コミュニティ・スクールを導入する
臨教審や中教審の答申の中に、地域との連携ということが何回か謳われ、1998年の中教審答申の中で、具体的方針として学校評議員制度が提言されます。この方針が、2004年6月の「地方教育行政の組織並びに運営に関する法律」(以下「地教行法」)の一部改正に繋がります。ここで、学校運営協議会が制度として導入され、さらに2017年3月には「地教行法」の一部改正により学校運営協議会の設置を教育委員会の努力義務としたのです。そのような経過の中で、コミュニティ・スクール指定校は全国7601校(2019、5.月現在)までに増えました。
それはそれで良いのかもしれませんが、日本は文科省を頂点とした中央集権的な教育体制をとっている国です。原理的に真逆のコミュニティー・スクールが全国的に導入されたということは、どこかで矛盾点が露呈して、そこが限界点になる可能性があるということです。
つまり、教育権限の地方への委譲がないまま、コミュニティ・スクールを設置しても、そこには自ずと限界があるということです。例えば、教育課程は学習指導要領によって定められていますので、運営協議会の中で仮に「方言教育」を教えようという意見でまとまったとしても実現することはありません。また、現場には教科書選定権がありませんので、運営協議会の中で、教科書の採択について議論するのは無駄となります。
(「教育新聞」)
逆に、何が出来るかということです。特定のある授業について、外部講師の選定をすることが出来ます。これは実際の例ですが、平和教育の出前授業を戦時中の空襲体験を味わった方に来てもらって子供たちに話をしてもらうということが出来ますし、安全指導や登下校の見守り活動を運営協議会が中心となって行うことができます。
要するに、あくまでも現場のサポート的な役割が期待されているということです。
ただ、それらの仕事を分担してもらうことで、現場の抱えている問題が解決の方向に向かうかどうか、さらに地域活性化に寄与するのか、そこが一番問題です。運営協議会だけが活発に論議しているものの、いじめ、不登校などの問題が解決せずに高止まりしているようでは、余り意味がありません。
(「文部科学省」)
文科省が教育行政の頂点に居座っているうちは、日本の教育は良くはならない
教育はもともと個別具体的なものです。ということは、本来地域やそれぞれの学校ごとに教育課程が異なっていても構わないというか、異なっているのが普通なのです。国あるいは文科省は大枠だけを決めます。
例えば、下の表のようにコアとなる教科については、週あたりの配当時間数と年間の授業時数の割合を示します。それに従って、各学校で教育課程を決めるようにします。
国語 | 4~7時間 (12~25%) | 算数 | 4~7時間 (12~25%) |
理科 | 2~4時間 (6~15%) | 生活 | 2~4時間 (6~15%) |
道徳 | 1~2時間 (3~6%) | 社会 | 1~2時間 (3~9%) |
現在は、学校5日制が原則ですが、学校の判断で6日制にもできるようにします。地元の企業が資金を出す、寄付講座の開設も認めます。1学期が算数6時間、2学期は算数4時間というように、学期によって配当時間数を変えるのも認めます。とにかく、1年間のトータル授業時数が「12~25%」を満たせば由とします。
教科書の選定権も現場に与えます。検定教科書を使っても構いませんし、それ以外の教科書を使う場合は、教育委員会への届け出制とします。こうすれば、教科書問題が政治問題からはずれます。選定を巡って変な汚職事件もなくなります。
このような措置は何のためか。ひとえに、子供のためです。子供の能力と個性の伸長のために、その子供たちに合った教育を現場が考え、提供できるような態勢を創ることが大事です。そして、それを学校運営協議会がサポートしていくということだと思います。
デューイの言葉を紹介します――「いまわれわれの教育に到来しつつある変革は、重力の中心の異動である。それはコペルニクスによって天体の中心が地球から太陽に移された時と同様の変革であり革命である。このたびは子供が太陽となり、その周囲を教育の諸々のいとなみが回転する。子供が中心であり、この中心のまわりに諸々のいとなみが組織される」(デューイ『学校と社会』岩波文庫、2005年/49-50ページ)。
今の日本の教育は、真ん中に文科省があって、その周りを子供が走らされています。そのために様々な問題が起きているのです。その構造を根本的に変える必要があるのです。アメリカのように。
(「産経ニュース」)
読んでいただき、ありがとうございました。
よろしければ、「ブログ村」のクリックをお願い致します ↓