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20世紀は「形式的平等主義」が横行した時代 ―― 21世紀は共同体の蘇生と統治の再設計をする時代 / このままでは内部崩壊する

  • 2026年3月3日
  • 歴史
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女性

「前回の話は、大仏次郎論壇賞、司馬遼太郎賞など3賞を受賞された作品なのに、殆ど的外れの論説を展開していたというお話でした。なぜ、そういったことが起きるのでしょうか?」

「審査する側も、審査される側も歴史哲学を確立していないからです。それがないまま、お互い意見を言い合っているような状況です」

女性

「そして、最後は人間的な繋がりの中で受賞できてしまうということですね」

「編集長との繋がりの中で本を出し、出版社との繋がりの中で受賞してしまうということです」

女性

「読者は「蚊帳の外」ということですか?」

「結果的にそうなってしまっていますし、賞そのものの信頼も落ちてしまいます。そして、歴史哲学を持たずに史料を読み込んでも、それがどういう意味なのか理解できないと思います。リンゴが落ちるのを何回見ても、それを受け止める力がなければ何も生まれません」

女性

「歴史哲学というのは、視点を与えてくれる基準のようなものですね」

「そうですね。例えば、我々がフィギュアスケートを見ても厳密に採点することは出来ません。何が基準なのか、理解出来ていないからです。歴史を視る場合も同じです」

女性

「およそのことは分かるけれど、厳密さが求められる問題には太刀打ちできないということですね」

「「大東亜共栄圏」という微妙かつ大きなテーマについて、外務省を中心とした動向だけで説明しようとすること自体に無理があります。今日は、20世紀という時代をどう捉えるかという話をしたいと思います」

女性

「ここからが本論です ↓表紙は「note」からのものです」

 形式的平等国家の限界

 二十世紀は「平等」の世紀でした。「平等」には実質的平等と形式的平等があると説いたのがアリストテレスですが、ここで言う平等とは、「形式的平等」を指します。欧米が産み出した一つの価値観と言えます。普通選挙の実現、義務教育の普及、法の下の平等の確立など、近代国家は形式的平等を制度として徹底しようとしました。明治以降の近代日本もこれに追従します。ただ、ここで前提とされたのは、人間を抽象化し、同一の基準で処理可能な存在として扱うという発想でした。

形式的平等とは、同じ規則を一律に適用することです。しかし現実の社会は、能力差、地域差、文化差、歴史的背景の差といった多様性に満ちています。差異を抱えた社会に一律の基準を適用すれば、必然的に矛盾が生じることになります。その矛盾を補正するために、国家は再分配政策や規制、例外措置を設けようとします。例えば、近代日本は四民平等と言いながら、華族制度を新たに設けて特権階級を生み出しました。

なぜ、そのような制度を設けたのか。体制維持のためです。特権を与えて組織の擁護者になってもらう必要があるからです。華族から士官学校への優先入学といったコースもありました。形式的平等は本来、差別の否定という重要な意義を持ちますが、差異を認めない平等は役割の正統性を弱め、責任の所在を曖昧にすることになります。二十世紀が示したのは、「能力差を直視せず、形式的平等で覆い隠す」ことの制度的限界でした。下のイラストで説明すると、左が形式的平等であり、右が実質的平等となります。

(「X.com」)

 日本史に見る有機的共同体

 この問題を克服する手がかりは、日本の歴史の中にあります。日本列島は南北からの移住と融合によって形成された社会であり、単一性ではなく重層性を基礎としてきました。その社会構造の最小単位は、家族と地域共同体でした。

近世の村落社会では、五人組や氏子制度、祭礼や共同労働といった仕組みによって、家族は地域と常時接続されていました。家屋の構造における縁側のように、生活空間そのものが開放性を帯びていたのです。共同体は排他的でありながら、完全閉鎖ではなかった。外部との接触を前提とした半透膜的構造を持っていました。

重要なのは、行政もまた共同体を単位として統治した点です。村請制に象徴されるように、国家は地域に責任を委ね、その自律性を信頼していました。国家と地域は上下関係というよりも、委任関係に近い形で結ばれていました。地域が内部秩序を維持し、国家は上位原理を保持する。この多層構造が、平等と秩序を実質的に調和させていたのです。このバランスの上に多彩な日本文化が生み出されたのです。

(「オフイビラ源吾農場」)

 細胞としての共同体と統治の再設計

共同体は、人間の身体における細胞に似ています。細胞は境界を持ち、排他性を有しますが、同時に他の細胞と有機的につながり、代謝と再生を行います。境界がなければ崩壊し、硬直すれば壊死をします。健全性とは、適度な排他性と開放性の均衡にあるのです。

近代国家は、形式的平等を貫徹させるため、中央に機能を集中させましたが、結果的に共同体を弱体化させてしまいます。結果として、地域の再生能力は低下し、国家権力が矛盾の補正装置として肥大化しました。二十一世紀に顕在化した社会の歪みは、この構造的変化の帰結といえるのです

今後求められるのは、抽象国家を否定することではなく、その役割を再定義することです形式的平等をすべて否定するのではなく、実質的平等との両立を図るのです。国家は、形式的平等と基本的人権の最低基準を保証する存在にとどめることです。一方で、実質的平等の調整は、地域単位の自律性に委ねる。地域が主体的に秩序を形成し、国家がそれを信頼し、部分的に統治権を委任するのです。この多層的統治こそが、平等と秩序を止揚(アウフヘーベン)する道なのです。

抽象的理念を国家規模で全面実装する時代は、もう終わりです。これからは、具体的人間関係の中で実質的平等を息づかせる社会設計が必要となります。共同体の再活性化は、単なる郷愁ではありません。持続可能な統治構造への転換です。平等と秩序は対立概念ではありません。両者は、共同体が機能的に発揮する場において初めて結び直されるのです。抽象論が多くなってしまいましたが、次回は共同体の現状をどう見るかということを書きたいと思います。

(「株式会社adaras」)

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