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学術会議問題 ―― 根底には国家観の違いがある / 西洋近代国家観で日本社会を見る愚

女性

「学術会議問題について、「朝日」、「毎日」は止むことなく批判を続けています」

「特に『朝日』は、まるでどこかの政党の機関紙のような紙面づくりをしています」

女性

「それは、例えばどんなところで、そのように感じるのですか?」

「例えば、今日(10.31日)の「オピニオン&フォーラム」のテーマは「トランプ慣れする世界」でした」

女性

「ただ、そのテーマを見た瞬間におよその内容が予想できますね」

「その通りです。そして、案の定、トランプに反対する3人の識者の意見をずらり載せています」

女性

「せめて2対1くらいにすれば良いと思います」

「そうですね。一応4年間大統領として職務を全うして、次期の大統領候補者として現在運動している訳ですからね」

女性

「仮に、トランプさんが再選された場合、読者はその理由が分からないことになりますよね」

「それでは無責任でしょ。新聞は公器の役割がありますからね」

女性

「トランプ大統領は権力者。権力者に対しては批判精神でもって対抗すべきという反論が聞こえてきそうですよ」

「批判精神は大事です。ただ、公平の精神も大事です。相手の主張も紹介する、反論の場を与えるということが必要だと思います」

女性

「まあ、そうですね。トランプ大統領の4年間の政治、共和党が推している大統領なので、何か評価すべき点があるはずですからね」

「評価する意見については載せない、それでは「学問の自由」と口で言っているだけだと分かります」

女性

「ここからが本論です ↓」




 独善論に陥っている「朝日」の紙面づくり

現場の教員として生徒たちに言っていることは、数学や物理の世界は正解は1つ。だけど、社会の問題というのは、事実に対してそれをどう見るか、見方の問題なので、答えが2つ、3つあってもおかしいことではないんだよと常々言っています。だから、思ったこと、考えたことを自分の言葉で頑張って表現してごらんと言っています。

社会には多様な意見があって良いのです。ところが、実際に『朝日』を見ると、社説や特集記事は当然のことながら読者の投稿欄、読者の川柳まで総動員しての批判オンリーの紙面づくりをしています。読者の中には食傷気味になる人も出てくるのではないでしょうか。

そして、批判精神というのは自らの意見や、その依って立つ考えの大元について時には検証する必要があります。もしかしたら、独善論に陥っているかもしれないからです。私に言わせれば、『朝日』は完全な独善論です。自ら、検証されることをお薦めします。

 

 批判派の依って立つ西洋近代国家観は、日本の国家観とは異なっている

批判派の立ち位置について論じたいと思います。彼らが頭の中で描いている国家像は、西洋の近代国家です。国家というのは権力をもっています。その権力を行使して、国内を統治し、時には、それが行きすぎて人民の弾圧に走ることもありました。そのため、人々は権力から自分を守るため、それに対抗するために権利という概念を生み出します。このように、常に国家と人民を対抗関係で捉えるというのが、西洋的な国家観ですが、日本はそのような国家を歴史的につくってこなかったのです

西洋近代国家という言葉はありますが、西洋中世国家という言葉はありません。つまり、国家というのは、近代の産物であるというのが西洋の歴史学者の見解です。そして、その考えに則って権利論が構築され、日本の憲法学会などはそれを当然のように踏襲しています。

日本の歴史を調べると、日本の国づくりの考え方は西洋のそれとは明らかに違うことが分かります。ヨーロッパは狭い国土の中に多くの民族がひしめき合って生活していたこともあり、国家意識に目覚めるのが遅かったと思いますが、その点日本は島国だったこともあり、国家を意識したのは古く、7世紀から8世紀頃と考えられます。

その最初のきっかけを作ったのは聖徳太子だと思います。隋の煬帝に遣隋使を派遣した際に、例の「日出ずるの天子……」という手紙を小野妹子に持たせ、対等外交を中国に求めています。また、憲法十七条には「上和(やわら)ぎ下睦びて、事を論(あげつらう)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず」(第一条)とあります。大まかな意味は、上の者も下の身分の者もお互い親睦の気持ちをもって論ずれば、自然にうまく事は収まるという意味です。さらに。三条には「上行えば下靡(なび)く」とあり、2つを合わせて考えると、権力を持っている上の者とそうでない者をすべて一つの共同体のメンバーとして考えていることが分かります。家族的国家観とも言うべき国家像が日本の国家像であり、西洋の国家像とは明確に違います。

その点について、日本国史学会の代表でもある田中英道博士は「奈良時代、8世紀の日本は政治と宗教がともに天皇を中心に、世界に類例のない統一体をもって、一つの国家をつくり上げた」 (田中英道『日本国史の源流』育鵬社.2020.10/118ページ)と指摘します。そして、「日本では、このような国民・国家意識がすでに近代どころか、さらに千年遡る7、8世紀にすでに成立していたのです」(田中英道 前掲書. 119ページ)と言います。


日本の家族的な国家観は、「いみじくも『国家』という日本語によく表されています」と博士は言います。どういうことか、西洋では、nationとかstateという言葉を使いますが、その単語には日本の「国」プラス「家」という意味は入っていません。日本の場合は、一つの大きな家、つまり大宅(おおやけ)、それが「公」となり、「私」の延長と捉えられるようになっていきます。

そのため、大化の改新の際の公地公民の制の導入、さらには明治の版籍奉還といった大きな改革の時もさして大きな抵抗もなかったのは、当時の日本人がそういった捉え方をしていたためと考えられるのです。

 民主主義日本において、国家・政府と国民を対抗関係で捉えるのは基本的に間違い

2つの国家像を紹介しました国家と国民を対抗関係で捉える方は、当然学術会議と国家・政府を対抗関係で捉えようとします。なぜならば、自由権というのはそういう権利と思っているからです。今回、会員に任命されなかった東京慈恵会医科大の小澤隆一教授(憲法学)の意見がインターネットに掲載されていたので、ご紹介します。

小澤教授は、「日本学術会議はこの学問の自由の保障を受けて、我が国の平和的復興、人類・社会の福祉に貢献し、世界の学会と提携して学術の進歩に寄与することを使命として設立された。政治権力に左右されない独立の活動によって、政府と社会に対して学術に基礎づけられた政策提言を行うことをその職務としている」と述べ、「今回の任命拒否はこうした学術会議の目的と職務を大きく妨げるものであり、一日も早く撤回されなければならない」と述べています。

下線部分が、西洋の近代国家観に基づく見解です。日本の国家観とは異なります。

学術会議というのは、政府機関で会員の身分は特別公務員です。日本的な国家観に従うならば、学術会議は政府と協力して歩調を合わせ、様々な時代に合った提言をする必要があります

ましてや、現在の政府は普通選挙制度のもと国会議員が選出され、その人たちを構成員とする2院制の国会が成立し、そこを母体としています。憲法が定める民主主義の手続きによって総理大臣が選出され、その総理大臣が中心となって内閣・政府が組織されています日本は専制国家でも、独裁国家でもありません。さらに、学術会議は政府機関なのに、どうして、民主的に成立した政府に対抗しなければいけないのでしょうか。独立して勝手に活動することは許されないと考えます

『朝日』(10.31日付)の声欄の紙面にやくみつる氏のイラストが載せられ、それに「いつそ『御用学者会議』にしてやろうかっ!」という言葉が添えられています。御用学者という言葉は、政府に協力的な学者に対して左翼が侮蔑的に使う言葉です。こういう品性のない言葉を使うべきではないと思っていますが、ただ敢えてこの言葉を使うならば、学術会議は御用学者会議に徹することが使命なのです。公務員というのは、そういう立場の人たちだと思っています

政府の方針に協力するのが当然と考えます。それが嫌であるならば、会員を辞退すれば良いと思います。辞退とは関係なく、自分の学問研究は大学で自由に続けられるでしょう。そして、今回の任命拒否は、今までの経緯を見て、非協力的な会員を任命しなかったということです。何も問題はありません

読んでいただき、ありがとうございました。

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