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「韓非子」のすすめ ―― 大陸の人間の肚のウチを探るための道具 / 人間は善にも、悪にも転ぶ存在

「韓非子という思想家を知っていますか」

女性

「性悪説でしょ」

「すごいじゃあないですか。今、即答でしたよ」

女性

「えへん、高校倫理の成果です。だけど、そこで終わりです」

「何、それ !?」

女性

「教科書も名前と書名の紹介程度で終わっていますので、授業で簡単に触れた程度でした」

「受験教育の弊害みたいなものですね。中身が大事なんですけどね。加地伸行氏が書いた『韓非子』(産経出版)を読んでいます。韓非子は例え話が多いです。だから、分かりやすくて良いですよ」

女性

「例え話が上手い人は頭が良いと父が言っていました」

「そうなんですか。何か違うかなと思いながら、変に説得されてしまうところがあります」

女性

「性悪説なので、孟子の系列になるのですか?」

「孟子は性善説なので、荀子の性悪説を受け継いで、法家(ほうか)思想の確立に貢献したと言われています。彼の書を読んだ秦の始皇帝が感激をして、是非これを書いた人に会いたいと言ったそうです」

女性

「独裁者にとっての指導書なんですか?」

「結構、冷たくさらっと言いますね。統治の書ではなく、人間をどう見るかという点で学ぶべき点が多いと思ったのでしょう」

女性

「成る程、ところで、性悪説と性善説は、どちらが正しいのですか?」

「どちらも正しいのです」

女性

「どういうことですか?」

「教育次第で、どちらにでも転ぶのが人間なのです。大事なことは、固定的に捉えてはいけないことです」

女性

「本論の方で深めていきたいと思います ↓」

 人間は善にも、悪にも転ぶ存在

今回、新書版の『韓非子』(産経出版、2022年)を出された加地伸行氏が序で「右手に『論語』、左手に『韓非子』があれば、この世のあらゆることを鏡のように、映しだせることはまちがいない。そしてそれは、己の鑑(かがみ)となるであろう」と書かれています。

『論語』は性善説、『韓非子』は性悪説なので、どちらの人間に対しても対処できるということでしょう。

ただ、ここで素朴な疑問が湧きます。どうして、性善説的な人間と性悪説的な人間の2種類がこの地上にいるのかという疑問です。そういうことは、他の動物にはありません。せいぜい温厚か獰猛(どうもう)かくらいのものです。温厚に見えて、根は冷酷な人間もいるので、人間はその範疇で分類することは出来ません。考えてみれば、不思議なことかもしれません。

 

 カギは教育が握っている

動物と人間の大きな違いは、社会を形成し、その中で教育が組織的に行われるということです。動物も親子間で教育が行われますが、そこだけで留まっています。教育が組織的に行われるために、どうしても2種類の人間が出てしまうということです。

どういうことか。組織的に行われるということは、一人の人間に対して、多くの人間が関わるということになります。教員は当然のことですが、友人や先輩、近所の住民などです。すべてが善意の人ではありません。そこにその子のもともとの性質と本能・欲求が絡みます。ただ、これは仕方がないことです。無菌培養の中で育てる訳にはいかないからです。

問題なのは、性善説と性悪説をどの位の割合で教えるかということです。日本の教育は、性善説に基づく教育しか行っていません。そのあり方を考え直す時期に入っています。誤解をしないで欲しいのは、悪を正面から勧める訳ではないということです。自分の周りの世界の人の中には、こういう見方で人間や社会を見ている人もいるという教えをするのです。そういう意味で、『韓非子』は絶好のテキストだと思います。

 大陸の人間の肚のウチを探るための道具――『韓非子』

「カニは自分の甲羅に合わせて穴を掘る」という諺があります。要するに、自分を基準にして相手を見るのが人間だということです。自分が善人であれば、周りの人も善人だろうと思い、悪人であれば、周りも悪人だろうと思って人と接しがちだということです。

日本人は何故、騙されやすいのか。オレオレ詐欺や統一教会の献金、さらにはSNSを媒介にしての詐欺事件などで多くのお金が吸い取られています。消費者教育の必要性を言う人もいますが、対症療法的な教育ではなく、きちんとしたテキストに基づいて、人を騙す側の心理を勉強する時代です。

『韓非子』の中の話を1つ紹介します「仁政よりも法の政治」という項目(45ページ)があります。ここで言う法は刑罰法の意味として考えて下さい。仁や義といったものを重視した政治というのは、王の立派な行いを褒め称えても実際の政治には無益だが、法や規律によって人民を導いた方が世の中は治まるという話です。その根底には、無知蒙昧な民衆に高尚なことを教えても無駄という性悪説の考えがあるということです。

「民衆というものは、もともと権勢に服従するものであり、また権勢は本当に民衆を服従させやすいものである」(53ページ)。ここには、力が絶対で、それを得られれば、人を支配し、国を治めることができるといった考え方があります。力こそが正義なので、その力を得るためには、何をしても構わないという考え方にも繋がっていきます。

要するに、周りの人間を支配すべき人間と考えるのか、仲間として考えるのかということです。人間社会は他人と協調しつつ、競争もしながら、基本的には国という単位でまとまって行動しています。そして、国際社会自体もまさに競争しつつ協調しています。この複雑な社会の中で生きていくためには、性善説の考え方だけでは無理ということです。実際に厳しい社会現実に触れた瞬間に絶望する人も出ています。日本で自殺が多いのは、そういうことも一つの原因としてあるのです。

(「西日本新聞」)

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