「今年は太平洋戦争の敗戦から75年となります。無謀な戦争を何故、という疑問を多くの人がもっているのではないかと思います」
「私も、その一人です。試合と同じでやるからには、勝たなければいけないと思いますし、負ける戦いなら最初からやらなければ良かったと思います」
「戦争とスポーツの試合とは違いますので、単純にスポーツに例えるのはマズいと思います」
「スポーツも戦争も真剣勝負であることには変わりがないと思いますけど……」
「戦争は出来るだけ回避しなければいけないのですが、試合は逆です。だから、そのまま例えることは出来ないと思います」
「成る程、確かにそうですね。日本はその点、回避努力が足りなかったのではないかというのが、私の認識です」
「回避努力をしたのですが、追い詰められ、そして戦力を客観的に分析したら勝てるかもしれないということでGOとなったようです」
「戦力の客観的分析というのは、何ですか?」
「開戦時の日米の戦力を比較すると、実は日本はそんなに遜色がないどころか、結構優位に立っていたのです」
「えっ、そうなんですか!」
「茂木弘道氏の『日本は勝利の方程式を持っていた』(ハート出版、2018年)によると、アメリカは兵力を太平洋と大西洋に分けなければいけない。その上での比較ですが、空母、潜水艦、駆逐艦、巡洋艦の数は日本の方がアメリカより多いことが分かります」
「勝つチャンスはあったということですね」
「当時は、戦争も1つの外交と考えていたと思うのです。アメリカは当初、日本に対して油断をしていたところがあります。そこに付け込んで、2年位戦って講和に持ち込むことを考えていたようです」
「ところが、それがズルズルと長引いて、最後は原爆を投下されるという事態になったということですね」
「戦争もチームワークが必要だと思いますが、陸軍は大陸に目を向けて、海軍は太平洋に目を向けているようでは、ダメだと思います。そして、全体を俯瞰して、部隊を動かす人間が一体誰だったのか? そのあたりの組織的なミスが致命的だったと思います」
「ここからが本論です ↓」
大きな2つの組織的なミス
組織的に大きなミスが2つあります。1つは、明治政府が出来た時は、「兵部省」として陸軍、海軍が一体だったのですが、1872(明治5) 年に「陸軍省」と「海軍省」に分けてしまいます。ここから両者の間に亀裂が入り始めます。両雄並び立たずなので、同じような組織を設置した場合は優劣を決めておくか、調整機関を作っておかなければ両者間で何か問題が起きた時に解決できなくなりますが、その組織的手当をしなかったのです。
薩摩と長州の対立が、そのまま陸軍、海軍の対立に持ち越された観があります。陸軍は長州出身の大村益次郎が基礎を築き、大村の死後はやはり長州藩出身の山県有朋が引き継ぎます。手本としたのはフランス軍でした(後にドイツ式へ移行)。
一方の海軍はイギリス海軍を手本として、薩摩出身の川村純義と勝海舟が中心となって、組織的な基礎固めを行います。同じ国の軍隊なのに、陸軍はソ連(ロシア)を仮想敵国とし、海軍はアメリカを仮想敵国にして、お互い別の方向を向いて歩み始めます。
そして2つ目の問題は、統帥権に歯止めをかけなかったことです。これが致命的なミスとなります。つまり、戦前は軍隊に対して、内閣といえども指揮命令できなかったのです。統帥権は天皇大権の中に含まれているのですが、それはあくまでも憲法上の法文の話なのです。天皇はもともと権威の象徴であって権力者ではないため、天皇が軍隊を指揮命令することはありません。天皇が軍隊を統帥すると明治憲法に規定がありますが、実際には、軍隊を抑える機関も組織もないということです。5.15事件、2.26事件以降軍部が実権を握るようになりますが、軍部独走を止めることが出来なくなってしまいます。
「連合国相手の戦争は、日本にとって正しい時期における正しい戦争であった」(ジェームズ・ウッド)
アメリカのジェームズ・ウッドという歴史学者が2007年に「太平洋戦争は無謀な戦争であったのか」との邦訳で本を出版しています。
【開戦時の日米戦力比較】
日本 | 米国(太平洋側) | 米国(太西洋側) | |
戦艦 | 10 | 11 | 17 |
空母 | 10 | 3 | 7 |
巡洋艦 | 38 | 32 | 26 |
駆逐艦 | 112 | 84 | 172 |
潜水艦 | 65 | 30 | 111 |
(服部卓四郎『大東亜戦争全史』原書房より)
イギリスがドイツに対して苦戦を強いられていましたので、大西洋側に多く配備されているのが分かると思います。アメリカの戦力が、2分されている間に有利な戦いをすればデータの上では勝機があったことが分かります。ところが、日本は陸軍と海軍の連携が悪く、力を一つに結集できなかったことが大きな敗因の一つとなります。
第二次世界大戦の原因は、1929年の世界恐慌にあり
1929年のニューヨークのウォール街の株価暴落に始まった世界恐慌ですが、データを見ると世界各国の工業生産が大きな被害をうけたのですが、大きな被害を受けた国が、アメリカ、フランスです。アメリカ1932年の工業生産は1929年の半分までに落ち込みます。
そこでアメリカがとった政策が保護貿易だったのです。自国の製品を守るために、輸入品に平均40%もの関税をかけます。当時の日本にとっても、アメリカは最大の貿易相手国でした。1929年の時点で、全体の輸出額の約4割がアメリカ向けでした。ところが、一方的に関税障壁がつくられ、日本もそれに対抗せざるを得なくなります。
そこで東アジアに経済のブロック圏をつくります。1943年11月5日から6日にかけて東京で「大東亜会議」が開催され、日本、中華民国、タイ、満州国、フィリピン、ビルマの首脳たちによって「大東亜共同宣言」がなされます。この事実は歴史の波間に沈められてしまっていますが、それを『朝日新聞』が11月6日付の夕刊の1面トップで「共同の目標五大原則 不滅の大東亜を建設」と報道しているのです。
この動きは、欧米の植民地主義に対する抵抗の動きでもありました。五大原則とは、1.共存共栄 2.自主独立 3.文化と伝統の尊重 4.互助精神による経済発展 5.人種差別撤廃、以上の5項目です。
日本が主導権を握ってのこういった東アジアでの動きをこころよしと思わなかったのがアメリカです。「1941年7月23日、ルーズベルトは陸海軍合同委員会提出のJB355号という作戦計画書に対して、はっきりとOKのサインをしていたのです」(茂木弘道氏『日本は勝利の方程式を持っていた』ハート出版、2018年)。OKサインをしたのは、真珠湾攻撃の5か月前です。
このJB355号は、1970年に文書が公開されているそうですし、これについて日本のテレビ朝日が2018年の8月12日に「真珠湾攻撃77年目の真実 ルーズベルトは知っていた?」という題でテレビ放映しているそうです。
日本が一方的に仕掛けたという見方もありますが、そういった資料を見ると、日米の激突は時間の問題だったし、ある意味必然的だったということです。
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