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宝は海の向こうからやって来ると信じている日本人 / 失敗談と成功談 ―― テニスと憲法のお話

「田中信弥(しんや)という元プロテニスプレイャーが書いた本『テニス・インテリジェンス』の中にかつて活躍した日本人テニス選手のことが書いてありました」

女性

「かつてというのは、いつ頃ですか?」

「戦前ですね。1900年代の初頭とありますので、明治時代の終わり頃です。軟式テニス出身の日本人選手が世界の舞台で大活躍をしていたのです」

女性

「ウインブルドンの決勝に出た男子日本人選手のことを前にテレビで紹介していましたよね」

「チルデンと清水善造ですね。いわゆるフェアプレィで有名な話ですよね。チルデンが転倒したので、チャンスポールだったのだけどそれを決めずに、彼の近くに緩いボールを打ったのです。当時、それがフェアプレィとして大変評価されます」

女性

「それは、いつの話ですか?」

「ちょっと待ってください。今、調べますからね。1920(大正9)年ですね。ただ、私は彼だけだと思っていたら、そうではなくそれ以外に世界ランキング3位の佐藤次郎氏、全米ベスト4の熊谷一弥氏、デビスカップで活躍した山岸次郎氏と多くの選手がいたことを知ったのです」

女性

「今でいう錦織レベルの選手が4人はいたということですね。それは初耳です。ただ、どうして日本のテニスが当時は通じたのですか? そして、どうしてその勢いが続かなかったのですか? 」

「当時の軟式打ち、今でいうトップスビンが世界を席巻したようです。世界の主流はドライブとスライス。つまり、余り回転を掛けない打ち方、それに対して日本人は軟式テニスの打ち方をそのまま硬式で使ったのです」

女性

「今の主流の打ち方の先取りを、実は日本人がしていたということなんですね。じゃあ、それを普及させれば良かった訳ですね」

「そうなんですが、田中信弥氏曰く、そこから悲劇が始まったと言っています」

女性

「何があったのですか?」

「海外ブランドに手を出してしまい、先頭集団を走っていた日本テニスは脱落していったとのことです」

女性

「いやだ、そうだったんですか。何か勿体ない話ですね。ここからが本論です ↓」

 

 宝は海の向こうからやって来ると信じている日本人

2人のテニスの話は、日本人の「弱点」がよく分かるエピソードだと思い紹介しました日本人の「弱点」は、足許を見ずに、価値あるものは海の外からやって来るという思いを強くもっているところです。

これは多分、日本人のDNAに刻み込まれているからではないかと思います。どういうことか。日本人はこの日本列島に何万年という長い年月を、農耕民族として生活をしてきました。その過程において、様々な作物や道具との出会いがあったことでしょう。その中に目を見張るような驚きとともに受け入れられたものが多くあったはずです。それから、日本人は魚を食べますので「海の幸」という言葉も遺っています。彼らの目線で考えると、新しきもの、素晴らしきものは、常に海の方からやって来るという観念が知らず知らずのうちに育ったのではないかということです。

テニスで言えば、当時の世界の主流は、ドライブ、スライスと余り回転をかけない打ち方です。それが日本では日本の元祖トップスビン、軟式打ちを凌駕してしまいます。私が中学の硬式テニス部に入ったのが1960年代の後半ですが、かつての日本人の活躍は知りませんでした。ウッドラケットの時代でしたが、世界の流れに沿った打ち方を教わりました。ラケットの重さが370~400グラム位だったと思います。今のラケットよりも平均して100グラム位重いと思います。言われたことは、真っすぐ引いて、真っすぐ打て、回転は自然に掛かるような打ち方が良いと言われました。

中高合同の部活だったので、高校から入ってきた人もいました。中には公立中学で軟式テニスをしていたという人もいたのですが、グリップから打ち方全てを直されていました。今から考えれば、直す必要はなかったということです。


 

 日本人の変わり身の早さはDNAがなせる業

海外のものにすぐ飛びついてしまうのは、実は日本人のDNAがなせる業です。それが良い方向に作用する場合もあれば、悪しき方向に出てしまうこともあります

テニスは悪しき方向で出てしまった例ですが、良い方向に出た例として一番分かりやすいのは、文明開化でしょう。そのつい少し前まで「攘夷」と叫んで、実際に武士に刀で斬り捨てられた外国人も何人かいました。開国、大政奉還から文明開化まで約20年位ですが、日本はあっという間に西洋風の風俗を受け入れてしまいます。

その辺りについて、山川出版の日本史教科書の記述を紹介します――「1872(明治5)年12月には、西洋諸国の例にならって暦法を改め、旧暦を廃して太陽暦を採用し、1日を24時間とし、のちには日曜を休日とするなど、長いあいだの行事や慣習が改められた。文明開化の風潮は、東京など都会の世相によく表われた。洋服の着用が……民間に広まり、ざんぎり頭が文明開化の象徴とみられた。……東京の銀座通りには煉瓦造りの建物が並び、ガス灯、鉄道馬車などが東京の名物となり、牛鍋が流行した」(271ページ)。肉食や牛乳を飲むようになるのも、この頃からです。この変わり身の早さは、他の国には例がありませんが、この次に「変わり身の術」を使うのは戦争直後です。「鬼畜米英」と言っていたのですが、その舌が乾かないうちに「ギブミーチョコレート」と言うようになります。

(「中学校の社会科の授業づくり」)

 日本人の学者も海外ブランドに飛びつく習性がある

明治の時代になって、多くの国との交流が始まるようになります。外国の文物とともに、思想や考え方、様々な西洋の概念が日本に流入します。そのうち、近代国家として近代憲法を制定しなければいけないことに気が付きます。他国と対等に付き合う際に、相手国が日本をどのような国と判断するのか、その際に憲法は重要な役割を果たします。ということは、憲法の中に日本の統治に対する考え方や伝統と文化を織り込む必要があります。帝国憲法の制定に直接携わった伊藤博文と金子堅太郎の書いたものが遺っています(伊藤博文『帝國憲法皇室典範義解』附 帝國憲法制定の精神 金子堅太郎)。復刻出版されたものですが、制定者の考えがよく分かります。



当時も無批判に西洋法学を採り入れようとした学者がいたようです。金子堅太郎の文章を読むと、それを意識した書き方になっています。言い回しが少し難しいのですがそのまま紹介します――「日本の憲法は、日本に二千五百有余年来継続して居る国体と云うものに基いて出来たのであって、欧米諸国の憲法の如く帝王の壓迫(あっぱく)に堪えずして貴族と人民が鋒(ほこ)を逆さまにして帝王に迫った結果出来た憲法とは違う。」「鋒(ほこ)を逆さまにしてという言い方がユニークですが、まだ封建時代の感覚が残っていたのです。農民が将軍に対して刀を向け、力を背景に詔を書かせたというイメージで捉えたのでしょう。

日本の統治は伝統的に天皇を権威者として擁立し、実際の政治はその時々の権力者が行うというやり方です。簡単に言えば、権威と権力の分離原則を採用しています。この考え方は、古事記神話の中に盛り込まれているのですが、そこでは「シラス(治らす)」「ウシハク(領ハク)」と表現しています。権威者はシラス者、権力者はウシハク者ということになります

そして、国民は国家という家族の一員という捉え方をします。「臣民」というのは、そういう意味です。実は、このような考え方、システムを使っている国はありません。日本独特のものですが、このシステムを採用したので、革命が起きず、何千年と同じ王朝のもと平和な日々を送ることができたのです。最初のテニスの話ではありませんが、日本人は余りこのことに価値を見出そうとしません

特に当時の憲法学者は、西洋の国家の学説を採り入れようとします国家主権説、国家法人説です。いずれも当時の日本の国家を説明するには適さない学説でした。ところが、この2つの学説が生き続けることになります。例えば、現行の公民関係の教科書には、明治憲法を説明する際に、天皇主権と書かれているものが殆どです。天皇主権という言葉は、明治憲法も使っていませんし、制定者もそのような考え方をもっていません。ところが、何故かその学説だけが生き残って、言葉として教科書に採用されているのです。

(「古事記」より/「神道の心を伝える」)

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