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わいせつ教員対策新法について / 教員養成と教師養成は違う――教員養成の方針がわいせつ教員を生んだ

女性

「変な法律が制定されようとしているのですね」

「どうしたのですか? のっけから」

女性

「「わいせつ教員対策新法」という法律を今国会で成立させようという動きがあるそうです」

「仕方がないとは思いますが、情けない話ですね」

女性

「そういう法律を制定しなければいけない現実があるということですものね」

「SNSのニュースを見ていると、毎日のように事件が起きていますものね」

女性

「データを見ると、令和元年度は8年前の1.5倍です。増え方が右上がりなので、さらに増えそうな感じです」

「さすがにまずいと思ったのでしょう。取り敢えず、歯止めを掛けたいということでしょう」

女性

「ただ、根本的な原因を探り当てて、それに対処することを考えなければいけないと思いますけど」

「おっしゃる通りです。「元から絶たなきゃダメ」というコマーシャルがありましたが、それが原則です。対症療法的に何か法律を作ったとしても、いろんな問題が現場に残るだけです」

女性

「素朴な疑問ですが、どうして、このような問題が起きるのでしょうか? 小学生の女の子の親としては、心配なのですが……。今の担任がどうのこうのではなく、そういう犯罪が教員によって起きること自体が信じられないのです」

「言わんとしていることは分かります。根本的な原因は、大学の大衆化にあります。大学が乱立して、今や大学進学率が50%を超え、誰でも簡単に教員免許が取れる環境になりました」

女性

「量の多さが、質の低下を生んだということですね」

「簡単に言えば、粗製乱造ということです。そうなると、今度は高い理想を描いて教育界に身を投じようとしていた人たちが、少なくなり始めます」

女性

「どうしてですか?」

「プライドが持てなくなるからです。人はそれなりにプライドをもって生きています。そのプライドが満たされる仕事に就きたいと誰もが思います。そのため、狭き門であればある程、人はそこを目指そうとします。こういう法律を作ると、教員の志望者はさらに減ると思います」

女性

「わいせつ教員対策……もう少し、良いネーミングがないのでしょうかね。ここからが本論です」

 教師を養成したいのか、教員を養成したいのか

教師を養成したいのか、教員を養成したいのか、多分その基本的な部分において、文科省は分かっていないと思います。そもそも、教師と教員の違いすら文科省の行政官には分かっていないと思いますし、国会議員も分かっていないと思います。分からない人たちが、教育行政に携わっているので、日本の教育が良くなる訳がありません

教育というのは、2つの意味があります。勉強を教えて、人間を育てるということです。勉強だけ教えるのは教員で、勉強を教えてその子を一人の人間として成長させる仕事に携わっているのが教師です。だから、塾や予備校は勉強だけ教えていますので、教員ということになります。教師であれば、勉強についての基礎知識は勿論のこと、その子が社会の中でどのように羽ばたいていけるかを考えて指導する必要があります。

(「教員ブログ」)

 教員養成の方針が、わいせつ教員を増殖させた

戦前の教師養成は、師範学校によってなされました。師範学校あるいは高等師範学校を卒業しなければ、教員免許状を授与されませんでした。つまり、それ以外の大学を卒業しても、教壇に立つことは出来なかったのです。どうして、そのように完全に分けてしまったのか。簡単に言えば、人づくりとモノづくりは違うという考え方に基づくものです

人づくりというのは、お金のことを余り考えない人間が望ましいのです。目の前の子供たちのために、時には自分のことを犠牲にするような人間が好ましいのです。逆にモノづくりについては、お金のことを考える人間でないとダメです。世のため、人のためも大事ですが、まず大事なことはソロバン勘定に合うかどうかです。採算を度外視して、なんていうことを言っているようでは企業人としては失格です。会社が潰れてしまうからです。

戦後になり、国は教員養成に舵を切ります師範学校は教育大学、学芸大学と名前を変えて存続することになりますが、教員免許は教育大学、学芸大学を卒業した学生以外でも教職課程の単位を取得すれば取ることができるようになりました。教員免許が「軽く」なった瞬間です。だから、取り敢えず教員免許を取っておいて、企業に就職することもできるようになりましたし、どちらにしようか進路選択に迷った人もいたと思います。

免許の取得が簡単になれば、後はそこに需要と供給の法則が働くことになります。免許取得者が増えれば、当然質の低下が起きます。人間の社会の変化は、徐々に起きるものです。自然の大地と同じです。一気に陸地が動くということはありません。しかし、不思議なことに方向は定まります。悪しき方向なのか、良き方向なのかです。悪しき方向に少しずつ動き出します。ただ、急には起きませんでした。それは戦後しばらくは、大学というのは「狭き門」であり、そのことによって質が担保されていたからです。

 

 大学進学率が50%を超え、定員割れ大学でも教職課程がとれる

日本私立学校振興会・共済事業団によると、2020年度において、私立大学・短期大学で定員割れの大学は全体の31.0%、184校あります。中には、定員の4割から5割の充足率しかない大学もあります。そういう大学の入試はあってないようなものですが、そこでも教職課程をとれば教員免許を取得できます。

本来、人間を教育するのですから、教育学部に入って教育史や教育哲学、心理学など教育全般にわたって学んだ上で教壇に立つのが本来の姿です。どんな精密な機械よりも、さらに精密に出来ているのが人間です。果てしない可能性を個々の人間は秘めているのですが、今の教員養成システムを考えた人間には、そのことがよく分かっていなかったと思います。教員養成なので、勉強さえ教えれば良いという考え方に基づいてシステムが作られています。

そのため、どの学部を卒業しても構わない。工学部であろうと、法学部であろうと、とにかく教職課程の単位を取れば由(よし)としたのです。そして、当該の大学の中に教育学部が無くても教職課程を設置できるようにしました。ということは、教職課程の講義をする教員はどこかの大学の講師ということになると思います。それでも文科省は教職課程の設置許可を与えています。教員養成の扱いが非常に軽いのです。

1960年代以降から大学の大衆化が進みます。2000年の頃には大学進学率が50%となり、現在は60 %位になっています。大学生のレベルダウンが起き、それは当然に教員のレベルダウンを生みました。10数年前に対症療法的に教員免許の更新講習を導入したのは、何とかしたいという気持ちの表れですが、そんなものは何の効果もありません。そして、今回の「わいせつ教員対策新法」になります。すべてこれらは、対症療法的発想です。

(「ガベージニュース」)

 教師養成のシステムを基本に立ち返って考える時期

管理職の権限を強め、教室と教員の管理を強めて犯罪が起きないようにという動きが出て来るでしょう。ただ、教員志望者の質が確実に落ちていますので、急に改善することはないでしょう。逆に、今度は教員志望者が激減することが考えられます。すでに、現場では教員が足りないという声が上がり始めています。

いろんな意味で対策を立てる時期が迫っていますが、対症療法的な発想で取り組むのではなく、日本の教育を担う教師をきちんと養成するためにはどうすれば良いのかという問題意識に立って、システム全体を見直すことを考える必要があります。

そして、本来はこのようなことは、学術会議の仕事です。人事問題で徒党を組んで文句ばかり言っていないで、きちんと仕事をしろと政府関係者は言ったらどうかと思います。

(「朝日新聞デジタル」)

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