「文科省が小学校の教員免許と中学校の教員免許を同時にとりやすくする方針を出しました」
「今まで両方とる場合は、大変だったのですか?」
「教員養成系の大学は比較的簡単なのですが、普通の学部の場合は、小中いずれかの免許を取る場合は、50~60単位が必要です。両方取るには118単位が必要だったのです」
「それで何をどのように減らすと言っているのですか?」
「教育実習を小中いずれかで良いとして、教科指導法で似通ったものについては免除するかたちにして、4分の1位を削るみたいです」
「そのことが現場の様々な問題解決に繋がれば良いと思います。実習をどちらかで良いとか、単位を減らす等、話を聞いた限りは方向性としては少し違うような気がします」
「そういうことを考えた元々の発想は教員の成り手が少なくなり、使い勝手が良いように多くの免許を取らせるような措置を講じようということです」
「ただ、教員の成り手が少なくなった理由としては、職場のブラック化という問題があったのでしょ」
「勤務時間だけではなく、親の躾の問題や地域の問題もあって、年々子供に手が掛かるようになってきています。それにも関わらず、1クラス当たりの児童数とか教育環境は余り改善されていません」
「正規の教員ではなく、副業、兼業の形で教壇に立てるように「特別非常勤講師制度」の導入を考えていると聞きました」
「ただ、そういった発想は、とにかく何でも良いので現場にまわす教員をいかに増やすかという発想に基づいただけの政策となっています」
「いわゆる対症療法ですね」
「であれば、教員免許の更新講習をやめたらどうですか、と言いたいですし、デジタル化に予算を回す必要があります」
「ここからが本論です ↓」
教育学部の定員、全国合わせて16600人
日本の大学の教育学部の総定員数は、16600人です。小学校から高等学校まで、新任として採用される数はおよそ33000人位(小:15000人、中:9000人、高校:5000人、その他は特別支援学校、養護学校、栄養教諭)なので、約半分です。
全然数が合っていないと思うかもしれませんが、別に教育学部を卒業していなくても教員免許が取れるので、数的には不思議ではありません。ただ、私自身は教育学部出身者ですが、人間に関わる学問分野について、どうしてこんなに扱いが軽いのかと常々思っています。そして、制度的にはこの問題が、不登校やいじめ、ひきこもりといった状況を教育現場にもたらしていると思っています。
例えば、マンションや一戸建てを建てる時に、建築学を勉強した人が図面を引くと思います。何事もある程度専門的な技能をもった人間が現場で対応するのが通常の姿ですが、教育に関しては、どうもそういう発想はないようなのです。
文学や物理学、数学や体育学を勉強した人でも、教職課程の単位を取れば教員免許を取得できるようになっています。この制度は戦後から始まったのですが、義務教育年限が従来の6年から9年と長くなり、その需要に応えるために開放免許制度を導入したのです。つまり、戦前は教員養成については師範学校で行われていたのですが、それだけでは確実に教員が足りませんので、そのようなシステムを導入したのです。
そこまでは良いのですが、そのシステムを緊急避難的で暫定的なものと考えるのか、永続的なものと考えるかによって扱い方が違ってきます。文科省の捉え方は後者だったのです。
ただ、それでも大学進学率が実質20~30%位で推移していれば、質的にも担保できたのですが、近年のように「全入大学」の状況では教員の質確保という点で、かなり難しくなってきています。教員が引き起こすハレンチ事件が多くなっているのは、そういうことに原因があるのです。
小学校教育が上手く行かなければ、全てがダメになる
「小1プロブレム」という言葉が生まれたように、急に環境が変わり、それについていけない子供たちの問題が取りざたされることがあります。
いろいろな原因が輻湊していて、単純に原因を一つに絞れることができないのですが、例えば、一斉授業の問題、1クラス当たりの児童の数の問題、教員の指導力の問題もあるでしょう。
「最初が肝心」という言葉があるように、小学校教育、中でも小1が一番重要です。ここで崩れてしまったら、あとの5年間頑張ってもかなり厳しいと思います。
スポーツと同じです。最初に変なフォームを身に付けてしまったら、途中で直すのは大変です。すべてを分かっている人が手ほどきすると上達が早いのですが、よく分かっていない人が適当に教えると素質がその子にあっても上手くなりません。
学校生活も同じです。勉強のフォーム、生活のフォーム、友達との接し方、上級生や先生方との接し方にもフォームがあります。それらを一つひとつ丁寧に教えてあげることが必要なのです。それを繰り返し指導して身に付けさせます。
そういうこともあって、戦後しばらくは小学校の教員は国立の教員養成系の大学で専ら育成していたのです。子供のことや教育のことについて、問題意識をもち専門知識をもった教師に手ほどきをお願いする。そこで軌道に乗せることができれば、後は家庭とタイアップしながら育てることができるだろう、ということです。
中高の一貫校も多分どの学校も、中1に一人か二人、力がある教員を常に配置して、上手く学校生活に溶け込むようにしていると思います。
ただ、それらはあくまでも一斉授業を前提にしています。国も現場も21世紀の教育は個別具体的なものだという認識を強くもって、そのためのシステムなり教育課程を生み出す必要があります。
全国一斉休校、一律10万円給付、アベノマスク全国一斉配布。コロナ禍の態様は地方によって違います。何でも一斉、一律という発想をそろそろ変えませんか。今年3月の全国一斉休校、あれで卒業式や終業式が吹っ飛びました。悲しい思いをした卒業生、保護者がいると思います。振り返って、あれは何だったのかと思っている人もいるのではないでしょうか。
コロナが、全国一律という発想を止める時期と教えているかのように思えます。
政策というものは、一つのあるべき姿を想定して行うもの
人間も組織もこうありたいという目標があって、それに向かって日々考え行動するのですが、国の教育政策にはそういった視点が足りません。そこが最大の問題です。文科省に至っても同じです。常に成り行き任せ。ただ単に、目の前の業務を組織としてこなしているに過ぎないという感じです。
『日経』に「軽すぎた9月入学論議」(2020.7.27日付)という記事が掲載されました。新聞社の中には、政治部の記者が片手間に教育問題を書いたりするところもあるのですが、『日経』は教育問題について真面目に考えて、スタッフを固定して、きちんと現場に足を運んで記事を書いている新聞社だと思っています。
その中で、「こんど浮上した課題はかつて議論されたことばかりである。臨教審の改革派は『平時だから乗り越えられる』と説いたが、結局は挫折したのだった。それほどの難事業を、逆に災厄の最中にやろうというのだから無鉄砲きわまる。9月入学を唱えるには、構えが軽すぎたのである」と、手厳しいです。
最近は、文科省はわざと日本の教育をダメにしているために動いているのではないかと思うこともあります。教科書検定制度を悪用して、通すべき教科書を「一発不合格」にして、通してはいけない教科書を合格させてしまう。多分、反日勢力が中枢まで入り込んでいると思われます。
日本の教育は中央集権制です。一律一斉教育という、民主主義国では珍しいシステムです。中国や半島の国がこれに目をつけないはずがありません。様々な工作やアプローチが現在も行われていると思います。
文科省を押さえれば、日本の教育をすべて押さえることができるからです。日本の教育を守るために、組織メンバーの採用や育成において他の行政官庁とは違ったシステムを導入する必要があるのです。同じ行政官庁にするために扱いが軽くなり、様々な工作も受けやすくなっています。
日本の防衛という観点から、教育行政の在り方を見つめ直す時期に来ているのです。
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