「最初に、若干の訂正をさせて下さい」
「どうしたのですか?」
男「和楽器が日本の学校にはないと昨日のブログで書いたのですが、学習指導要領の中に「伝統音楽の指導の充実」と書かれていることもあり、箏(こと)や和太鼓が置かれるようになっていますというご指摘を受けました」
「全国的にですか?」
「いや、その辺りは何かデータをとっての発言ではなく、知っている近隣の2.3の学校では、こうですよという発言でした」
「ただ、仮に箏(こと)があっても、音楽の教員がそれを弾けるとは限らないですよね」
「だから、学校にどのような和楽器を置くかは、その学校に配属されている音楽専科の教員の力量に負うところが大きいのです」
「場合によっては、全く音色も聞かないということもあるのですか?」
「そういうことがないように、地域にいる和楽器の奏者に演奏を頼むというようなことをしているようです。例えば、箏、和太鼓、三味線、尺八のコラボで八木節など伝統音楽を演奏して、子どもたちに聞かせるというようなこともしたそうです」
「それはそれとして素敵な話ですが、伝統産業は衰退傾向にあり、三味線メーカーの最大手の東京和楽器が廃業の危機に直面していると新聞に載っていました(『産経』8.10日付)」
「1970年頃には、三味線の製造数が14500丁あったそうですが、2017年には1200丁まで減り、この間のコロナ禍で4~5月の注文がゼロだったそうです」
「楽器あっての奏者であり、伝統の音色ですからね。国に支援をしてもらいたいですね」
「文化財に対する支援事業は聞いたことがありますが、伝統楽器のメーカーに対する支援というのは、どうなんでしょうか」
「無形文化財を保護するということで、国民の合意は得られると思います」
「本来は、国会議員が問題意識をもって動く、場合によっては立法化をする、ということだと思います」
「ここからが本論です ↓」
唱歌の歴史
日本の近代教育の歴史は、1872(明治5)年の学制発布からスタートします。当時は、音楽とは言わずに、小学校は「唱歌」、中学校は「奏楽」と呼んでいますが、「当分之ヲ欠ク」としてあり、科目の名称は作ったものの、まだ教科書もなく、授業もできるような状態ではなかったということです。
唱歌は、アメリカの小学校のカリキュラムにあった「Vocal Music」の訳語です。もともとは科目の名称ですが、やがて戦前の学校教育の現場で子どもたちが歌う歌のことを言うようになりますが、しばらく「音楽」の授業がなかったのです。
日本の音楽は、洋楽を採り入れるかたちで成立をします。その上で重要な役割を果たすのがのちに初代東京音楽学校長となる伊沢修二(1851~1917)です。23歳の若さで愛知県師範学校長となり、翌年アメリカに留学をしています。
(伊沢修二)
その彼が、1878年にアメリカから音楽について「音楽は学童神気ヲ爽快ニシテ其ノ勤学ノ労ヲ消シ、……」(松村直行『童謡・唱歌でたどる音楽教科書のあゆみ』和泉書院.2011年)と、べた褒めの手紙を文部省に送っています。さらに続けて、とにかく、発声が清くなり、発音も正しくなり、聴力も良くなり、思考力が密となり、もっている良き心根を伸ばしてくれる効果があるので、是非日本で導入されたしということです。
台湾の唱歌の歴史
戦前日本の音楽教育の確立において多大な貢献をした伊沢修二ですが、その他、師範教育、体育教育、ろうあ教育の創立に貢献するなど、獅子奮迅の活躍をします。しかし、文部省内の意見対立を公開の席で暴露したということで、左遷人事を食らいます。その左遷先が当時はまだ「化外の地」と言われた台湾だったのです。
日清戦争の勝利の結果、清国から台湾を割譲したのですが、伊沢修二は初代台湾総督府学務部長として、台湾の統治に取り組みます。
伊沢が台湾でとった統治の方針は「混和主義」と言われています。これは日本と台湾の民族融合政策です。「伊沢によればそれが可能になる条件は、統治国と被統治国とが民族的に近いこと、言語に共通性があること、知徳に大きな差がないことであった」(喜多由浩『消された唱歌の謎を解く』産経新聞出版.2020年/135ページ)
同じ日本の植民地として同じように統治をして、台湾の人には感謝され、韓国人には恨まれる。要するに、言語の共通性がなく、知徳に大きな差があったため、ということになるのかもしれません。
台湾を統治するにあたり、日本政府はまず鉱山開発、鉄道建設をはじめダム建設などのインフラ整備にとりかかりました。これらの台湾の近代化政策には日本語の普及も含まれており、その指導のため髙い志を持った人々が渡台しました。最初の頃は、国語教育と現地の日本人に対する台湾語学習だったのです。融合のために必要と考えたのです。
ところが、伊沢が日本に一時帰国している間に、「芝山巌(しざんがん)事件」が起きます。現地のゲリラ(「土匪/どひ」)に襲われて6人の有能な日本人スタッフが惨殺されます。実はそのうちの一人が音楽に造詣が深く、東京の伊沢に唱歌教育をやるべきとの手紙を送っているのです。その手紙が結果的には遺言となってしまい、そのことが伊沢の背中を押します。1898年から台湾で唱歌教育が始まることになります。日本の唱歌教育は、1908年ですので、日本よりも10年早いスタートとなるのです。そして結局、伊沢修二が「日本と台湾両国の唱歌の生みの親」になるのです。
ただ、何をするにしても必ず反対者という人はいます。唱歌は低俗、特に男の子には歌わせたくないということで一時は「選択科目」に格下げられたこともあったのです。しかしながら、様々な人たちの努力の中で最初の『公学校唱歌集』が1915年、その約20年後に第2期の『唱歌集』も出ます。そういう中で、単に日本の唱歌の移入ではなく、台湾の自然や動植物などを盛り込んだ唱歌も作られ、掲載されていくことになります。李登輝氏は1923年生まれです。彼は総統時代に音楽教育に力を入れたといっていました。彼の心に音楽の種が蒔かれたのは、ちょうどその頃なのです。
日本の唱歌よ永遠なれ
日本語は母音文化のため、聞き手に伝える情報が子音文化の国の歌よりも少なくなります。どういうことか、例えば「わたしはあなたを愛しています」と日本語で歌う場合、14音が必要です。「愛」は1音で済みますが、それ以外は1文字ずつ1音必要だからです。ところが、英語の場合は「I love you」なので3音で済みます。
ということは、歌詞を考える時に、思いっきり言葉を凝縮する必要があるということです。余分な言葉は使えません。一つの言葉で多くの情景が浮かぶような言葉を使うようにします。名曲と言われているものは、そういった工夫と、時間の流れ、気持ちが音楽に沿って流れるように作られています。歌詞を短くするために、和歌を使ったりします。「君が代」がそうです。
「花」(滝廉太郎作詞)の1番は源氏物語「胡蝶」の巻で詠まれた和歌が元歌になっています。「春の日の うららにさして 行く船は 棹のしづくも 花ぞちりける」(紫式部)。「うらら」と「しづく」がこの和歌の生命(いのち)になっているので、これを使ったのでしょうーー「春のうららの隅田川 のぼりくだりの船人が櫂のしづくも花と散る……」。日本の唱歌は学ぶべき技法が多く使われています。歌詞が短いのですが、聞いているといろいろな情景が浮かんできます。「花」、「ふるさと」、「紅葉(もみじ)」など、歌を聴いて、子供たちに思い浮かんだ絵を描いてもらっても良いと思いますし、格調高い言葉が使われていますので、それを抜き出して意味調べをしても良いと思います。美しい日本語の響きを、いろいろな角度から味わってほしいと思っています。
だから、内容が今の時代にそぐわないとか、歌詞の一部に問題表現があるとかという勝手な理由で不掲載にしたり、途中をカットしてしまったりということはやめるべきでしょう。一種の検閲にあたります。すべての歌が、それぞれの時代背景の中から生まれたものです。それ自体が生きた教材となっています。
例えば「我は海の子」は実際には7番まであるのですが、3番までしか教科書には載っていません。多分、7番の「軍艦に乗り組みて 我は護らん海の国」に引っかかるものを感じてカットしていると思いますが、却って不自然です。「我は海の子」は「独り立ちしていく青年の心意気」をテーマにした人生ドラマを歌詞にしているのですが、途中で終わってしまっています。考えすぎです
読んでいただき、ありがとうございました。
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