「自由社の歴史教科書検定不合格問題ですが、変なところから変な展開になりつつあります」
「『アサヒ芸能』という余り教育とは関係のない雑誌が火付け役だったと聞きました」
「北朝鮮スパイ説という話が出てきて、それに『産経』が反応したんです」
「ただ、私はその話を聞いて、妙に合点がいきました」
「私は、そういう経歴などをきちんと調べてないのかと愕然としました」
「教科書調査官が4人であること、4人全員の名前がネットで検索できます」
「最後には情報が出てしまうものです。伏魔殿ではないというならば、あらかじめこういう学歴、職歴の方が教科書検定官ですよとオープンにすべきだと思います」
「前もって知った場合と、何かあって後から知った場合とでは受け止める印象が違いますものね」
「そういうことを含めて、とにかくオープンにやって戴きたいと思っています」
「あと、全員が大学の非常勤講師だったので、少し「えっ」と思ったのですが、その辺りはどう思われますか?」
「検定制度をどういうものとして捉えるのかに関わってくると思います。本当に専門的な厳密さを求めてということであれば、ある程度の実績、ネームバリューが必要でしょう。あと准教授以上の経歴が必要というのが内規としてあったと思います」
「社会常識から大いに外れていなければOKという検定制度であれば、そこまでは望まなくても構わないということですね」
「ただ、今回は不合格処分にしていますので、「非常勤講師」ではバランス的にどうかなと思います。あと、社会科学系の学説は時代の中で変わることはよくあります。完全に正しい記述のものを教科書にという発想はしない方がよいと思います」
「そのために、各学校に先生方がいるんでしょ。 ここからが本論です ↓」
「一発不合格制度」により葬り去られた自由社の歴史教科書
自由社の歴史教科書が、検定申請で「欠陥箇所」とされ、結果的に不合格とされましたが、そこに至るまでにおいて今回問題となっているのが「一発不合格制度」です。
前回の検定は、自由社が358件、学び舎が273件の検定意見がつき、ともに不合格になったのですが、その意見に基づいて再申請をして年度内の合格となったのです。ところが、文科省が細則をこの間に変更して、申請された教科書のページ数の1.2倍以上の欠陥箇所があった場合は、不合格とするという制度を創設したのです。
今回、自由社についた検定意見はページ数の1.3倍にあたる405件です。それによって、教科書採択の道が閉ざされてしまったのです。
ただ、教科書を執筆している方はその道の専門家集団なので、本来は修正させて検定合格にもっていくのが教科書検定官の職務と考えます。
「生徒が誤解するおそれ」を切り札にしていますが、中学での現場指導歴はゼロ
上手い「切り札」を考えたものだと思いました。ただ、考えてみればおかしな口実です。もともと教科書検定というのは、専門の立場から教科書の記述をみて、その良し悪しを判断するものだと思うからです。
教科書検定官の4人の名前を、藤岡信勝氏はその著『教科書抹殺』の中で明らかにしています。村瀬信一氏、中前吾郎氏、橋本資久(もとひさ)氏、鈴木楠緒子(なおこ)氏です。ただ、問題なのは、村瀬氏以外は専門が世界史です。しかも村瀬氏は近現代史が専門なので、日本の古代から近世についての歴史を専門的に検証できる人間が配置されていなかったのです。
だから、要するに専門的な意見を言うことができないので、考え出した苦肉の策が「生徒が誤解するおそれ」を乱発するという「作戦」だったということです。そもそも、生徒というものは、教科書を誤って読む「人種」なのです。だから、教師が教室で指導することが必要なのです。
極端な話、教科書を配って、全国のすべての生徒がその内容を理解できるのであるならば、教師はいらないと思います。あくまでも基本的なことについて教科書に書き、それを正確に理解させるために、教師が学校現場に配置されているのです。補足をしたり、理解できない箇所について丁寧に説明するということを、各学校現場で行っているということが、よく分かっていないのではないかと思っています。
そもそも、例えば「仁徳天皇が世界一の古墳に祀られている」という記述について検定意見がついています。その際に「生徒が誤解するおそれ」という表現を使いながら、「葬られている」が正しいとしていますが、仁徳天皇陵の考古学的調査は宮内庁の反対もあって行われていません。
実際に、仁徳天皇が「葬られている」かどうかは、科学的に解明されている訳ではありません。「仁徳天皇陵」として世間に知られているのは事実ですので、「祀られている」という表現で良いと思います。そして、生徒がその意味を理解できない、もしくは誤解しそうであれば、現場の教師が対応すれば良いだけの話です。何も問題はありませんし、そもそも検定官の中に、古代史の専門の方がいないので、その辺りを判断すること自体間違っていると思います。
教科書検定そのものが、いらない
日本では長年、教科書検定が行われていて、それは当たり前のことという受け止め方がなされていますが、世界的に見ると、採択も含めて、かなり「厳格」に行われています。
伊勢呂裕史氏が「教科書制度と教育事情」(国立教育研究所)という論文を書かれています。ネットでその内容を見る事が出来ますが、それによりますと彼が調べた10か国(日、米、加、英、仏、独、フィンランド、韓、中,台湾)のうち、検定制度を維持しつつ、採択については教育委員会が行うというシステムを採用している国は、日本と中国しかないのです。検定制度を導入しているカナダ、ドイツ、台湾でも、採択については学校が決めることになっています。なお、韓国は国定教科書1冊なので、他国とは事情が違うと思います。
今回問題となった中学の教科書については、公立学校の場合は教育委員会が4年ごとに採択します。ちなみに、私立学校は学校単位で採択します。教育委員会が採択するということや、4年ごとということについて問題にする人は殆どいませんが、どうして教育現場から離れた人たちが4年ごとに使う教科書を決めるのでしょうか。
何年ごとに変えるかは、教科書会社の自主的判断でよいと思います。変える必要がないということで10年間変えない教科書があっても良いと思いますし、毎年新しいものに変えるということで教科書を作る会社があっても良いと思います。あと、教科の特殊性もあると思います。理数系の教科書は、それほど頻繁に変える必要はないと思います。社会の公民科の教科書は毎年変えた方がよいと思います。そして、採択は現場の教員が責任をもってすべきだと思います。私立学校は授業担当者が中心となって教科書を採択しますし、それが問題となったという話は聞いたことがありません。普通に考えれば、それが当たり前だということです。
教育の事情は学校ごとに違います。もちろん生徒も教員の力量も違うでしょう。それに合わせて各学校現場で教科書を決めれば良い話なのに、現場の責任者の校長の頭を飛び越えて教育委員会が決めるという。何を基準に決めるのかな、といつも不思議に思っています。
同じ市内で、一中はA社、二中はB社というように、使う教科書が違っていても良いのです。そもそも、検定が通っているので、大きな違いはないはずなのです。それを仰々しく教育委員会が決めるとするので、採択されれば膨大な数の受注となるので、それをめぐって汚職事件が起こったりするのです。
大きな権限を与えれば、そこに悪の芽が生えやすいということだと思います。
読んでいただき、ありがとうございました。
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