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『僕の見た「大日本帝国」』(その3) 北朝鮮篇 ―— 日本的なものを身近な遊具で発見 / 隣国を植民地にするのは前代未聞

  • 2024年8月10日
  • 歴史
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女性

「前回は韓国でしたが、今回は北朝鮮ですか」

「殆どの日本人が行ったことのない国にわざわざ行くという貴重な経験をされていますので、紹介しない訳にはいかないと思います」

女性

「どうやって行ったのですか?」

「団体ツアーではなく、一人で申し込むという手配ツアーで行ったと書いてあります」

女性

「費用はどのくらいだったのですか?」

「3~4泊で20~30万だそうです。20年前の価格ですからね。かなり高額だと思います」

女性

「彼は北朝鮮にどうやって入ったのですか?」

「新潟空港から中国に渡り、そこからロシアのウラジオストック経由で平壌に入っています」

女性

「旅行中は必ずガイドが付くそうですね」

「ガイド兼通訳が、望まなくても付くそうです。自由行動は許されません」

女性

「見学ルートも決まっているのですか?」

「金日成主席像の献花から始まって、金日成主席生家、地下鉄試乗、サーカス鑑賞、平壌観光、板門店、白頭山という感じです」

女性

「ここからが本論ですが、内容は西牟田氏の体験をまとめたものとなっています。彼の見た北朝鮮の「素顔」をお届けした方が良いと思ったからです」

 暗闇の平壌

午後9時に暗闇の平壌に到着します。入国審査は日本語で行われ、荷物チェックも票抜けするほど簡単でした。手続きが終わって出口に向かうと2人の男性がお迎えでした。一人は30前後。もう一人は50歳くらい。「西牟田さんですね」という流暢な日本語で話かけてきたそうだ。この2人が監視員を兼ねるガイドです。ホテル以外の場所では、それが散歩であっても必ず2人の同行が求められます。

宿泊先は平壌の中央を流れる大同江の中州の端に建てられた48階建ての羊角島ホテルです(下の写真)。国を代表する建物以外は照明がなく、そこからの眺めは漆黒の闇だったそうです。荷物を片付けて1階のラウンジまで降りる。そこで歓迎会を兼ねて旅の打ち合わせをします。

大日本帝国の時代の「日本の足あと」を見るために来たと言うと、「そんなものはここにはない」と一蹴されてしまいます。

(「中外旅行社」)

 北は工業国で、南は農業国

北は工業国で、南は農業国―—1970年頃まではそうでした。北には日本が建設した水力発電のダムがいくつもあり、その電力と地下の鉱産資源を使って鉄工業が戦前から盛んだったのです。

観光のための移動はすべてトヨタのワンボックスカーでした。道は一応舗装はされていますが、車の通行量はまばらで、自転車をこいでいる人や歩いている人の方がずっと多かったのです。通行量が少ないのに、高速道路を建設している現場に遭遇します。何でそれが分かったのかというと「21世紀の太陽、金正日同志の指導の下、平壌南浦高速道路の早期完成のために全力を尽くそう」という看板が掲げられていたからです。

看板を作る手間暇を高速道路建設につぎ込めば良いのにと思ってしまいます。作業員の数が20人位、工事はスコップ頼りの人海戦術でブルドーザーといった機械も見当たらない。北朝鮮の人海戦術は千里馬運動と呼ばれています。皆の力を合わせて、難事業を乗り切るという考え方ですが、簡単に言えば突貫工事です。

(「四国新聞」)

 日本的なものを身近な遊具で発見

平壌から200km離れた板門店に向かうことになります。その道中は高速道路を使います。ただ、高速道路と言っても料金所も防音壁もなく、交通量もほとんどないので、一般道路のようなもの。高架橋もありませんので、そのそばを歩いている人がいるくらいです(下の写真)。

平壌郊外のパチンコ屋にも行ってみました。総数は30台位でパチンコ室というイメージ。日本製のパチンコ台なので100円玉がそのまま使えました。客は誰もいないので、パチンコ室に入ると、人民服を着た兵士がパチンコ台のスイッチを入れてくれました。その後、ボーリング場に行き1ゲーム600円でプレィをします。コンピューターでスコアが出ると言って自慢していたが、日本のボーリング場のおさがりを使っていることが分かる。そして、実は北朝鮮の国内では日本円が普通に使えることを発見します。そのような国は、他には例がないと思われます

夜、スナックにガイドたちと行きました。客は誰もいませんでした。カラオケを皆で歌って盛り上がりましたが、選んだ歌は70~80年代の日本の歌謡曲「北酒場」や「異邦人」、「みちづれ」など。彼らも日本の歌謡曲を上手に歌いました。

(「Wikipedia」)

 隣国を植民地にするのは前代未聞

半島とは古代から親交があったし、同じウラル・アルタイ語の同胞です。ところが、明治政府は1910年に朝鮮併合をしてしまいます。戦前の植民地経営は国際的には合法活動かもしれませんが、隣国を植民地にするのは前代未聞の行為だと思っています。そして、ここからお互いの感情の行き違いが発生したと思っています。彼らが言う歴史認識というのは、このことを指していると思っています。

併合をしたので朝鮮半島は日本になります。戦争が激化する中で募集や徴用というかたちで朝鮮から日本に朝鮮の人々が連れてこられたのでしょう。終戦直後の在日朝鮮人の数は約200万人です。そのうちの2/3の人たちは、戦後に半島に帰ったのですが、残りの1/3の人たちは日本残留を選びます。

そのうち帰国運動というのがあり、「地上の天国」というプロパガンダを信じて北朝鮮に渡った人たちの数は9万3千人余り。そのうち日本国籍者が約6600人、日本人妻が1800人いたのです。その後の彼らの生活は過酷なものになったと思われます。すべての因果の始まりは、朝鮮併合という選択肢をとったことから来ています。

(「日本経済新聞」)

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