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東京パラリンピック閉幕――多くの学びと感動をありがとう / 真の共生社会を目指して、多くのヒントが与えられた

「パラリンピックの閉会式を見ましたが、感動的でしたね」

女性

「開会式から閉会式、様々な競技から多くの感動を頂きました。最初に、謝らなければいけないなと思っています」

「どうしたのですか?」

女性

「実はオリンピックのことは意識していたのですが、パラリンピックのことは殆ど自分の意識の中に入っていなかったのです」

「なるほど、贖罪意識ということですね。私も実はそうです。そういう意味で、開会式の和合さんの演技とあの泣きじゃくりは衝撃的でしたね」

女性

「何か、見なくてはいけないのではないかという強迫観念を持ってしまいました」

「だけど、観て良かったでしょ」

女性

「オリンピックとは違った感動がありましたね。オリンピックの場合は、誰もが超人的な人ばかりなので、ただ単に凄いの言葉しか出なかったのですが、パラリンピックの場合は、どうしてここまでとか、アシストの人の協力の凄さや終わった後の選手の表情と涙など、様々なことで感動をしていました」

「共生社会と簡単に言うけれど、障害の度合いも種類も全部違うので、実際には物凄く大変なことだと分かりました」

女性

「昨日の閉会式でも言っていましたが、人口の15%の人が何らかの障害を背負っていると言っていました。そして、健常者と言っても何かのアクシデントで障害を背負うこともあります」

「だって普通に年をとるだけで、機能障害になりますよ。ウチの母は最期は車イスでしたし、父は杖を使っていましたからね」

女性

「今回のパラリンピックの種々の競技は、障害者が参加する競技という視点だけではなく、その競技に健常者がどの程度参加できるか、あるいは高齢者と交流できるのではないかといった視点から見つめ直す機会になったと思います」

「バスケットで早速その動きが出ていますよね。健常者との混成ゲームの模索が始まったそうです」

女性

「ボッチャなんかは、高齢者との混成チーム、あるいは対抗戦が可能ですよね」

「小学生をそこに入れても良いと思いますよ。結構、頭を使いますからね。そういうふうに、垣根を取り外したところで真の交流が進めば良いと思います」

女性

「ここからが本論です ↓」

 

非政治的な国家イベントに対して、マスコミは旗幟鮮明(きしせんめい)にすべきではない

コロナ禍にかこつけてオリンピック、パラリンピックをさかんに中止をしろと言っていた新聞社がありました私の知る限りに於いては「朝日」と「毎日」がそれに該当します。彼らの姿勢は一貫して反日なので、オリンピック、パラリンピックで日の丸の旗が上がり、君が代が流れることを出来るだけ避けたいと思っているため、出来れば開催して欲しくないし、開催しても良いが日の丸の掲揚と君が代は聞きたくないと思っているのでしょう。そのタイミングでコロナ禍があったので、これを大義名分として「朝日」は高らかに中止をしろと「社説」に書いたのです。

新聞は公器であり、本来的に日本の国にとって有益になるような意見を書くべきであり、特定の主義主張に添った意見を言うべきではありません。政党の機関紙ではないからです。ただ、政治的な意見というのは、様々な見方がありますので、公益と言ってもなかなか難しい面があります。現在は、公益にかなう主張も、後世から見れば公益に反したということもあるからです。当然、その逆もあります。人間はすべてを見透す力がある訳ではありませんので、その辺りは仕方がない部分があるのですが、少なくとも国を挙げての非政治的なイベントに対して、新聞社は旗幟鮮明(きしせんめい)にすべきではないと考えます

というのは、そのイベントに携わっている人たちは、そのマスコミの言説に対して何の反論もできない立場にいるからです。「中止論」が一部マスコミから流れた時、内心祈るような気持ちでいたアスリートも多くいたと思います。公器としての新聞というならば、彼らのことを考える必要があるからです。

(「BLOGOS」/朝日新聞社説)

 オリンピック、パラリンピックを中止と言った以上は、その態度を貫け

オリンピック、パラリンピックは純粋に非政治的なイベントではない、だから中止といったのだという反論が聞こえてきそうですが、その理念や今までの歴史を考えれば、それは無理筋であり、「朝日」の中止は言い過ぎです。そして、中止を言ったからには、オリンピック、パラリンピックに関する一切の報道をしないという、首尾一貫とした報道姿勢が求められます。

例えば、「中止せよ」と力説して口角泡を飛ばすような演説をした人が、その後援会ニュースに「金メダルおめでとう」と書いた瞬間に、「こいつは馬鹿」と誰もが思うものです。そして、その瞬間にこの人の言うことは信用できないと思うでしょう。そういうことを『朝日』は、平気で行っています。いよいよ、末期現象に入ったのではないかと思っています。

(「読売新聞」)

パラリンピックに対して、とってつけたような「社説」(2021.9.6日付)を載せていますが、パラリンピックを実際に見ないで書いていることがよく分かります具体的な描写が全くないからです。ということは、現地取材は勿論のこと、テレビすら見ることなく「社説」を書いていると思われます

ぜひ『産経』の「社説」――「可能性示した選手に拍手を―開催は間違っていなかった」と読み比べてみて下さい(ネットで読むことができます)。

(「スポニチ」)

 パラリンピックを材料にして、政治的主張をするな

『産経』は素直に、大会の感動を読者に伝えるために具体的に伝えようとしています――「競泳男子バタフライ決勝で、1位と2位でゴールした木村敬一と富田宇宙が涙で顔をゆがめながら抱き合った」、「中継したNHKの放送席で、実況のアナウンサーや解説者らが泣いていたのも忘れ難い」。日本勢が活躍した車いすテニスを何試合も観ましたが、勝敗が決まって、最後両者が健闘をたたえ合って涙ながらに抱き合うシーンは感動的でした。

そういう感動を伝える気持ちがないのならば、「社説」でパラリンピックについて書くなと言いたいと思います。無礼千万だからです。見てないくせに見たふりをして適当にコメントを書き、さらに最後は政治的主張に結びつけようとする、何と品性のない新聞になり果ててしまったのかと思ってしまいます。学生時代、貧乏な下宿生活の中で「朝日新聞」をとり、社説と天声人語は欠かさず読み、社会に対してこのように考えるのかと思いを巡らしたこともありました。それが遠い日々になりつつあります。

多様なアスリートの姿が示したのはメダル数を超えた価値だ。スポーツは運動能力にたけた特定の人ではなく、万人のもの。障害を抱え、年齢を重ねてもスポーツを通じて社会とつながり、成長を続けられる。躍動はこうしたメッセージを伝えた(『日経』2021.9.6日付)。せめてもパラリンピックだけは有観客で行って、真の共生社会のあり方と今後のスポーツのあるべき方向性を考えるきっかけにして欲しかったと思っています。

今後は、無観客にしたため、赤字をどう補填するかという議論になってくるでしょう。「朝日」「毎日」は、出番と思っていろいろなことを言ってくるでしょう。

読んでいただき、ありがとうございました。

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