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男女平等の世界ランキングは意味はない / 日本的な生き方の中で平等を追究してきたことを世界に発信すべし

女性

「森会長の「わきまえろ」発言が、いろいろ波紋を広げてしまいましたね」

「オリンピック組織委員会のトップの発言だったので、問題視されたということでしょう」

女性

「わきまえる、という言葉にも注目が集まりましたよね。余り使われなくなった言葉ですよね」

「職場のネイティブに聞いてみたら、英語には、そのような言葉はないそうです。もし、表現する場合は、どういう言い回しなのかを聞いてみました」

女性

「何て言っていましたか」

「act moderately だそうです。actは行動、moderatelyは節度を守って、適度にという意味です」

女性

「直訳するとそうなのかもしれませんが、少しニュアンスが違う気がします」

「日本語の「わきまえる」というのは、封建時代の名残の言葉ではないかと思います。下の者が、空気を読んで、言う言わないの判断をするというのが原意だと思います」

女性

「封建時代なので、身分の下の者が気を遣うという意味と、女性が男性に気を遣うという意味があるということですね」

「封建時代においては、男尊女卑が当たり前というか常識だったので、今の「モノサシ」で言えばそれは差別ということになります」

女性

「だから、森会長発言は女性差別という話になったのですね」

「しかも、女性が発言すると会議が長くなるという「補足説明」までしたので、カチンと来た人がリークしたのだと思います」

女性

「私は思うのですが、普段からそういうスタンスだったと思います。急にここで一言ではなく、結構今まで不規則的にそういった発言があったと思います」

「本人は、差別だと全く思っていない、彼の中では常識なのです」

女性

「一番始末が悪いやつですよね。それで、積もり積もった積年の恨みということで、出てきたのではないかと推測しています」

「成る程、そういう見方もあるのですね」

女性

「そして、最後の「撤回記者会見」ですが、言われたから仕方がないので「撤回した」というのが表情から読み取られてしまい、スポンサーからの圧力もあって撃沈されたということです」

「随分詳しいですね」

女性

「ええ、テレビと週刊誌で学習しましたので……。ここからが本論です  ↓」

 日本の男女平等の歴史は、戦後から

ここにきて、日本が男女平等について意識が低いし、その観点からの改善がなされていないのではないかという指摘がなされることが増えました

森喜朗会長が女性を蔑視する発言で引責した問題は、日本女性を取り巻く厳しい社会状況を浮き彫りにした。森氏の発言には、大会のスポンサー企業からも批判が出ていたが、日本企業も女性の登用で課題を残す」(『産経』2021.2.13日付)とし、OECDのデータを上げています。そのデータによりますと、「日本の主要企業の女性役員比率は昨年は10.7%、加盟37か国のうち32番目と、諸外国に比べ出遅れが目立つ」(同上)としています。

ただ、現在の到達点だけを問題にしていますが、もともとの出発点が違うので、単純に比較して論じると誤解を与える恐れがあると思います

森喜朗会長は戦前に生まれた方です。彼の生年月日から推測すれば、明治時代のご両親に薫陶を受けていると思います。まさに幼き時代に身に沁みついた価値観というのは、時代が変わっても簡単には振り落とせないものです。それは、個人であっても社会であっても同じです。それに対して、大上段に断罪するのは、間違っています。何事も、急には転換しないものです。

何故なのか。それは、人間は機械ではなく、人間だからです人間という複雑な生き物が集まって、社会を形成していることを改めて意識して欲しいと思います。

 

 日本の男女平等の考え方は、役割分担の考えから来ている

平等というのは、形式的平等と実質的平等の2つの考え方があります。どちらがということではなく、どちらも平等の原理にかなっています。

日本の社会の現状に対する批判というのは、形式的平等の観点からのものです。ただ、日本の考え方というのは、あくまでも「家」を守るということが中心的な眼目だったのです

なぜ「家」なのか、と問われれば、それは日本は農耕民族の国だからと言うしかないと思います大陸は狩猟民族が支配する地です。その違いが、男女の役割分担の違いとなり、それが男女平等の価値観の違いに現れることになります。

どういうことか。頭の中でイメージして頂ければ分かると思いますが、一つの「家」を守るために男女がどういう役割分担をすると合理的かという発想があったと思います。辿り着いた結論は、外の仕事は男が行い、内の仕事は女が行うということになり、それが長い歴史の中で定着していっただけの話だと思います。

それは、あくまでも役割分担論からの発想なので、そこには男が女を支配するといった差別的な考えはありません。むしろ、「かかあ天下」という言葉があるということは、「家」のイニシァティブを女性が握っていたということがあるということです。

 日本の歴史とともに、日本人が大事にしてきた価値観を発信する必要あり

ただ、男であれ女であれ、どちらがイニシァティブを握っていたとしても、それ故に不平等とか平等といった感覚を持っていなかったと思います。

(細川ガラシャ夫人の辞世の句)

特に、武家社会では女性は男性の礎(いしずえ)になるような生き方が美しい生き方とされました。例えば、関ケ原の戦いの前の話です。細川ガラシャ夫人は、石田三成によって人質として捕らえられていました。狙いは、敵方の細川忠興(ただおき)の戦意をそぐためです。ガラシャ夫人は、ある決断をします。夫忠興の足手まといになってはいけないと思い、自らの命を絶ってしまうのです。この出来事は、石田三成にプレッシャーがかかり、それ以降武将の奥方を人質にとらなくなります。そして逆に、細川忠興に百万倍のエネルギーを与えることになり、関ケ原の戦いで縦横無尽の活躍をしたと言われています。その結果はご承知の通り、石田三成が指揮する西軍が負けることになります。

ある一人の女性の生き方が、天下分け目の合戦の行方を左右したと言われています。それを俯瞰的に眺めたとき、決してそれは女性の隷属した生き方ではないのです。ガラシャ婦人は、夫忠興のために喜んで命を捧げ、そこに自分の幸せを重ね合わせたのです。そこには、現代の平等、不平等という価値観とは違うモノサシが日本にはあったのです

狩猟民族の価値観は、我々とは違った狩猟生活の中から生まれます。彼らは、食糧を求めて移動生活をするのが基本的考え方としてあります。そして、男であろうと女であろうと、一家を支えるために狩猟が上手い者、狩猟できるポジションにいた者が、その役割を果たすという考え方が醸成されていったのだ思います。

このように、男女の役割の捉え方が元となって、それが現代の平等の考え方に繋がっているのです。どちらの平等が正しいのか。多数決で決めることが正しいのか。ただ、世界は殆どが狩猟民族ですので、多数決で決めれば、日本的な役割分担論は不平等という烙印を押されることになります。

それはそれとして受け止めることとして、日本は日本人の歩んできた歴史とともに、日本人の価値観、さらには平等の考え方においても2つの考え方があることを世界に発信する必要があるでしょう

読んでいただき、ありがとうございました。

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